極愛初夜-血脈だけの婚姻-
「綾瀬琴子さんですね?神月社長お呼びです。十六時こちらの部屋までお越しください。」
 その日の翌日、私はいつもの席で、神月社長に呼び出された。周りの人間は一体何事だとでも言いたいように、好奇の目と嫉妬の目で見てきた。今まで話してこなかった同僚も私のところまできて「一体何をやらかしたのか」と聞いてくる始末だ。わざわざこんなに人の目があるところで呼び出さなくてもいいのに。他の人間にばれないよう、私は静かに溜息をついた。
 そんな様々な視線を向けられながらも、業務をこなすと約束の時間はやってきた。普段の私なら社長に呼び出されたことにどきまぎしているのだろうが、今回は事情が事情だ。
 祖父には安心してくれと言ってしまったが、やはり不安が募る。私はこれまで男性はおろか、友人と呼べる人間もいない生活を送っていた。学校ではずっと勉強をしていたし、仕事が終われば、家で黙々と家事をこなすだけの人間だった。そんな人間がいきな結婚だなんてハードルが高すぎる。
(よ、弱気になっちゃだめだ!お祖父様の役に立たなければ!)
 少し弱気になりそうな自分に、パンパンと顔をたたいて喝を入れる。「無理」、「できない」で話は進まない。今こそこれまで育ててくれた祖父に恩を返す時なのだ。
 乗り慣れたエレベーターに乗りこみ、あまり向かうことのなかった上層へと向かう。見通しの良い窓からは新宿の街が一望できた。そんな景色が私をそわそわさせた。
 執務室へと続く扉の前に立つ。私すうっと息を勇気を振り絞り、重厚な扉をたたいた。
「失礼します。綾瀬琴子です。」
「ああ、入ってくれ。」
 低い男性の声が扉の奥から聞こえた。ゆっくりと扉を開けて、一礼をした。失礼のないようにしなければならない。この男性に好かれるかで、綾瀬呉服店の未来は決まるのだから。
「俺が神月蒼だ。といっても、入社式で俺のことは知っていると思うが。」
 きりっとした切れ長の目、短く清潔にまとめられた髪、黒を基調としたいかにも高そうなスーツを着こんだ男性がそこにはいた。男性に疎い私でも、顔は格好いいと思った。
 おもむろに背の低いローテーブルの前のソファに座ると、私にも座るように促す。私も社長の対面に座った。
「貴女が綾瀬琴子さんか。」
「はい。どうぞ、よろしくお願いします。」
「そんなに固くならないでくれ。俺たちは夫婦となるのだから。」
 夫婦という言葉に思わず顔が熱くなった。だが、社長は淡々とこれからの生活について話しだした。
「もう聞いているとは思うが、神月グループが貴女の祖父の店の援助をする代わりに、貴女には私と結婚してもらう。」
 まるで業務内容を説明するような口ぶりは、さっきまで感じていた熱を一気に冷ました。
 少しがっかりもしそうになるが、仕方ない。これはあくまで経営上の契約だ。たとえそれが夫婦という関係でも、感情が伴うはずもなかったのだ。
「俺の祖父は神月家の歴史が浅いことを不安に思っている。俺自身はそんなことどうでもいいと思っているんだがな…」
「そうなんですか…」
「そこで、呉服店の老舗である綾瀬呉服店への援助の話が出てきた。神月グループとしては取り込んでしまうという案も出たんだが、それより婚姻関係になってしまった方がいいという祖父の意見が強くて。それでここに勤めている貴女と俺の結婚が持ち上がった。」
 気まずそうに社長が視線を少しずらした。
「俺ももう三十になる。周りの人間が結婚しろとうるさくて。そういうしがらみから逃げられるという点でも俺は良い話だと思った。それに綾瀬家との関係が深まれば歴史の浅い神月にも有利に働くだろう。」
 そこまで話すと社長が書類を何枚か取り出し、私の前に並べた。
「契約書だ。よく目を通してくれ。わからない箇所は適宜質問してくれて構わない。」
 「これだ。」と言われ差し出された用紙を受け取った。そこには互いの生活に関与しないこと、私生活は自由に過ごして良いこと、同居すること、子どものことが書いてあった。
 子どもの件については、必ず設けるようにとあった。またもや熱が上がる。そもそも社長はこのことを承知しているのだろうか。もしかしたらこれは社長の祖父が決めただけで、社長自身は何も知らないかもしれない。
「社長、この件についてなんですが…」
「子どものことか?知っている。」
 社長は業務的な口調を全く変えず、そのまま話を続けていく。この結婚が本当に仕事の延長線上にあるような振る舞いだ。
「祖父の本来の目的はむしろそっちだ。単純に孫の顔が見たいというのもあるだろうが、それより綾瀬家の血が入った子が欲しいというのがおそらく本音だろう。…ここまでが契約の大まかな流れだ。理解できたか?」
「は、はぁ…なんとか。」
「それにしても貴女はいいのか。」
「いい、とは?」
「こんな親の決めた結婚でいいのかという意味だ。俺はもう結婚なんてとうの昔に諦めているから良いとして、貴女はまだ若い。子ができたら離婚することもできるが、それでも籍が汚れる。今後改めて結婚しようとしたら難しくなるだろう。」
 腕を組みながら私をまっすぐ見つめながら社長が話す。なるほど。たしかに社長の言うことは正しい。今後私に、もしくは神月社長に結婚したい人ができたとしたら今しようとしている結婚は邪魔にしかならない。社長も私を心配してからの発言だろう。
 だが、私に迷いはなかった。既に腹は決まっていたのだ。
「いえ、問題ありません。このまま契約を進めましょう。」
「…そうか。ではここと、こっちの紙にサインを頼む。」
 二枚の紙をさらっと差し出される。一枚はこの契約についての誓約書。もう一つは役所に提出するための婚姻届だった。すでに夫となる人の欄には神月社長の名前が書かれている。私はその空欄に自分の名前を書き込んだ。
「できました。」
「よし。これで貴女は俺の妻だ。よろしくな、琴子。」
「こと、」
 突然、名前で呼ばれて恥ずかしくなる。ただの書面上の関係だとしても、社長の顔、声は世間でいう、イケメンの分類になる。私のように免疫がない女には刺激が強すぎる。
「その…時は苗字で呼んでいただけないでしょうか。」
「なぜだ?結婚しているのだから、名前で呼んだ方が良いだろう。それに貴女は神月琴子になるわけなんだから。聞き分けがつかないじゃないか。」
 「俺が綾瀬になっても良かったんだがな。」と付け加えて社長がくしゃりと笑った。その笑顔もまさにイケメンのそれであった。
「ではせめて会社にいる間だけでも、綾瀬と呼んでください。」
「それならいい。ではよろしく頼む。…おお、もうこんな時間か。車を用意してくるから一階で待っててくれ。今日は一緒に帰ろう。俺の家の説明もしたいからな。」
「待ってください!きょ、今日から一緒に住むんですか!?」
「ああ。荷物は手配してある。気にするな。」
「そ、そうですか…」
「ああ、それと。」
 くるりと私に方を向いて社長が付け足すように話す。
「俺たちの関係は他言無用だ。そして互いに特別な感情を持たないこと。この二つは必ず守ってくれ。」
 ひらひらと手を振りながら、社長が部屋を出て行こうとするのを、私はただ眺めることしかできなかった。
 特別な感情。それが何を指すかは明白だった。私は経験したことがないので分からないが、とにかく気をつけなければならない。
「あ、一階に行かないと。」
 社長が私を社長の自宅(今後は私の家になるのだろうが)送ってくれるんだった。適当に自分の荷物をまとめると、私は社長がいなくなった部屋を後にした。
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