極愛初夜-血脈だけの婚姻-
 その日の朝はいたって何も変わらなかった。変わったのは自分がこれから暮らす家だけだった。朝の身支度を手早く済ませ、自身の部屋を出る。リビングに社長の姿はなかった。
 ふとテーブルの上に置かれたメモが目に入った。「冷蔵庫に入っているものは好きに食べてくれて構わない。」とある。私が朝ごはんを食べることを見越してのメモだった。私はありがたく冷蔵庫の置かれているキッチンへと向かう。
 私は冷蔵庫の中を見て、朝食の準備を始めた。社長はあまり自炊しない方なのか、あまり食材は置いていない。卵とハムがあったので簡単にハムエッグを作った。いかにも高そうな食パンもあったのでそれを一枚いただき、トースターで焼く。数分するとこんがりといい匂いが部屋を満たした。
「琴子、おはよう。」
 不意に社長の声が聞こえた。あわてて背筋を伸ばし、挨拶をする。
「神月社長、おはようございます。」
「なんだ、変に固いな。もうすこしフランクにいかないか。」
「ですが、神月社長は社長でありますので。」
「ふむ…これは先が長くなりそうだ。」
 社長がテーブルの前に腰かけ、新聞を開く。私はそれを眺めながら黙々と食パンに齧り付いていた。
 社長は何も食べないのだろうか。普段から朝食を抜く人はいるが、それでは調子が上がらないという話を聞いたことがある。何か食べるものでも用意したほうが良いのだろうか。
「俺は向こうで食べる。だからそんなに心配しなくても良い。」
 そう言われてハッとする。あろうことか人を、ましてや自分の会社の社長をじっと見つめてしまうなんて何という失態か。
「すみません、気になってしまいますよね。申し訳ございません。」
「いやそんなに謝らなくても良い。…ふむ。もうそろそろ時間だ。琴子も行くか?」
「はい。私ももうすぐ行きます。」
「では一緒に行こう。先に車出しておく。あとで下にくるように。」
「社長の車で行くんですか?」
「当たり前だ。俺たちは夫婦なんだから、問題はない。」
「ですが…」
 夫婦といっても契約で成り立っている関係だ。会社で噂を立てられてしまえば、私と離婚したあと、社長に迷惑がかかってしまう。それでは申し訳ない。
「遠慮はしなくて良い。どっちみち、同じところに行くんだから良いじゃないか。」
 「ね?」と小首を傾げながら言う神月社長は年齢より少し若く見える。あまり断るのも失礼だ。私はそう自分に言い聞かせて、社長のあとをついて行った。
車で数分揺られていると、神月百貨店にはすぐついた。警備員の方に挨拶をして、歩を進める。いつもと変わらない通勤風景であるのに妙に落ち着かないのは、隣を社長が歩いているからだろうか。
 エレベーターに乗り込み、執務室への階のボタンと、私がいつも出勤しているフロアへの階のボタンを押す。この緊張もあと少しだ。企画部のフロアに行けば社長とも離れられる。
「うん?琴子…いや、社内では苗字だったな。綾瀬、君は何も話を聞いていないのか?」
「何の話ですか?」
「君の部署の話だ。君は今日付けで部署移動している。」
「え!本当ですか!」
 昨日は誰も何も言ってこなかった。部署移動は普通上司から発表があるのではないか。
「知らないのも無理はないか。俺が昨日企画部の部長に言って、俺の秘書にさせたんだ。ほら、こうやって何かと秘密を抱えているだろ。社内でも距離が近いほうがいいかと思ってな。」
「そうだったんですか…」
 なんとも突拍子もない部署移動だ。だが、社長の言うことには正しい。私が他部署で言いふらさないとも限らないのだ。
「わかりました。それでは秘書室に…」
「いや、うちに秘書室はない。俺の部屋の隣がちょうど簡単なオフィスになっているから、そこを使ってくれ。」
「わ、わかりました。」
 そうこうしていると企画部のフロアから執務室のフロアに着いた。社長についてこいと言われ、そのまま後ろをついていく。
「ここだ。誰も使っていないから、少し埃っぽいが。」
 執務室の横には私が一人で使うには十分な広さのオフィスがあった。
「ここを一人で使うんですか?」
「ああ。狭いか?ならば業者を呼んで大きくして…」
「いえいえいえ!十分です!むしろ広すぎて…少し驚いてしまっただけです。」
「そうか?…まあ気に入ってくれたなら嬉しい。」
「それで…本日は、」
「いきなり秘書業務は難しいだろうから、今日はこの書類をまとめといてくれ。明日から俺のスケジュール管理をしてもらうよ。」
「了解いたしました。」
「それじゃあ、頼んだ。」
 軽く会釈して執務室へと向かう社長に礼をして見送ると、私はパソコンを起動した。渡された書類に目を通す。早速仕事にとりかかろう。
 すこしでも多く綾瀬呉服店への援助を続けてもらうためにも、こういうことに手は抜けない。子どものことはまた後で考えればいい。そう言い聞かせて私は作業に取り掛かった。
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