みずたまりの歩き方

「彼女は大学の同級生で、将棋のことはまったくわからなかった。それでも知ろうと努力して、精一杯応援してくれていたのだと、今ならわかります。なかなか会えなくても、急な仕事や研究会で約束をキャンセルしても、笑顔で許してくれました。決して邪魔なんてしなかったのに、僕は『勝てないのは彼女のせいだ』と思うようになったんです」

やわらかな西日が差して、うつむく久賀の前髪にかかる。
秋の枯野のように明るいその髪の奥で、久賀の表情は沈痛だった。

「彼女とは別れました。それでも勝てなかった。当たり前ですよね。努力が足りないんだから」

久賀が公式戦で残した棋譜は全部で十八局。
奨励会員にも参加資格のある、新人限定の棋戦のみだが、それでも勝ち上がるのは難しい。
ほとんどが敗戦譜だった。
美澄はそのすべてを覚えている。
久賀のような将棋が指せるようになりたくて。

「ずっと逃げてました。本当にギリギリ、あと数ヶ月で棋士への夢が絶たれるときまで。ようやく本気になったのはその時です。けれど本気の出し方を間違えて体調を崩して、最後の奨励会はボロボロでした。たくさんのひとに支えてもらって、ひとを傷つけてまで求めた僕の夢は、それで終わりです」

つまらない話をした、というように久賀はひと口コーヒーを含む。
カップをソーサーに戻す音は落ち着いていた。

「いつか、あなたに言われましたよね。『『頑張れ』って言葉にいちいち引っ掛かるのは、受け取る側のメンタルバランスが悪すぎる』って。その通りです。ちゃんと頑張れていないことを見透かされるようでいやだった」

「いえ、あの、そういうつもりじゃ……」

声は届かない。
ほんの、将棋盤ひとつ分の距離にいるのに。

憧れて憧れて、それでも決して為り得ないと悟った相手は、棋士ですらない。
それどころか、美澄の目の前で自分を否定しつづけていた。

久賀は頬杖をついて窓の外を眺めている。
その瞳は空虚で、光も通さぬ深淵が広がるばかり。
久賀の内側では、消え得ぬ悔恨が今も時折寝返りを打つようだった。

「先生……」

久賀は目の端に美澄を認めると、身体を起こして惰性のようにカップを口に運んだ。

「僕はあなたに『先生』なんて呼んで貰える資格はないんです。あなたはいつも全力で、傷も全力で受けて、ちゃんと夢と向き合っている」

美澄に向けられた笑顔は日差しに縁取られ、泣きたいほどにやさしかった。

「僕の方こそ、あなたに生まれたかった」

嘘もお世辞も言わない久賀の言葉は、ほんの数滴でココアの味を重くする。
何もできないなら、せめて永遠に冷めないコーヒーになって、その身体を温めたいと美澄は思う。
けれど、それを願うための流れ星さえ呼べないほど無力だった。

喉を落ちない苦いココアは、罰のように内側を焼いた。


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