みずたまりの歩き方
『B2に上がることができました。これで女流二級になれます』
ゆっくりと噛み締めるように美澄は言った。
「おめでとうございます」
『先生のおかげです。先生がいなかったら、私絶対に絶対にここまで来られませんでした』
鼻をすする音が何度も聞こえる。
「いいえ。あなたが頑張ったんです。僕はそのことを知ってる」
あれほど騒がしかった向こう側が、しん、と静まりかえった。
これまでにも電話越しに涙の気配を感じたことはあるが、かつてない心地よさで耳を澄ませていた。
『先生』
「はい」
『先生は不本意だったかもしれませんけど、私は先生があさひ将棋倶楽部に来てくださって、本当によかったと思ってます』
「生活のためですよ」
『それでも、です』
五分を過ぎた。
美澄が落ち着いたとは言えないけれど、もう戻らなければならない。
「日藤先生には連絡しましたか?」
『あ、まだ、これからです』
「何してるんですか。師匠が先でしょう。義理を欠いてます」
『すみません。師匠には一番最初に連絡したことにするので、この電話は内緒にしてください』
くり返し、ありがとうございました、と言って電話は切れた。
「古関さん、よかったですね」
平川も安堵のため息をついて、メール画面を覗き込んだ。
「はい」
「ここ一番で会心譜とは。さすがの強心臓ですね」
「あのひとは、だいたいいつもそうですから」
「おや、意外と冷静ですね」
「所詮は他人事です」
待たせたことを謝罪して、久賀は指導に戻った。
ずっと緊張していたせいでぼうっとする。
頭を振って気持ちを切り替え、目の前の盤に一手、歩を打った。
「あの、久賀先生」
次の盤に移動したところで生徒から声がかかった。
戻ってみると、今打ったばかりの歩を指差す。
「二歩(同じ筋に歩を二枚打つこと。反則)……です」
その指は、ふたつの歩を交互に行き来した。
「え? あ、ああ! すみません!!」
久賀は慌てて、指したばかりの歩を取ったが、そのまま動きを止める。
「どうしましょう? 下手(生徒)勝ちでも構いませんが、やり直しますか?」
「このままだと練習にならないので、やり直してもらっていいですか?」
「本当にすみません! ありがとうございます」
久賀は天井を仰ぎ見て、ゆっくり頭を左右に振る。
脳が働いていないことは、疑いようがなかった。