みずたまりの歩き方


昇級祝いに、と先手まで譲った久賀がチェスクロックを押した。
久賀のチェスクロックの押し方は、誰かの肩に手を乗せるようだと美澄は思う。
叩くのでも押し込むのでもなく、トンッと軽く押して手番を渡される。
あの頃は毎日当たり前のように、この音を聞いていた。
誰もいない倶楽部で、それは少し反響して聞こえる。

盤上で飛車を振る位置を牽制し合い、美澄はちらりと久賀を睨む。

(先生、先に決めてよ)

視線には気づいているくせに素知らぬ顔で、久賀は飛車を四筋に振った。
それを見て美澄が七筋に飛車に振ってから数手。
久賀はふたたび飛車を掴む。

(え! 嘘! 振り直すの?)

「古関さん、顔に出てます」

「なんで振り直すんですか」

「あなたがそうやっていやがると思ったからです」

寒い寒いと思っていたのに、すっかり身体は熱くなっていた。
駒の体温も心なしか高いように思える。

冷静でないことは、最初からわかっていた。
冷静でいられるわけがない。
そしてそんな状態で久賀に勝てるわけがない。
最後は詰将棋の問題に出てきそうなきれいな詰み形になって、美澄はくたりと頭を下げる。

「負けました」

「ありがとうございました」

美澄は重い腕を持ち上げてチェスクロックを止めた。

「古関さん、馬切るの早すぎましたよ」

「なんか……テンション上がっちゃって。攻め駒足りなかったですね」

「ここで金寄れれば、もう少し粘れました」

「先生、棋力上がってません?」

「僕の棋力より、古関さんが中盤に連続で悪手を指したのが敗因です」

「そうですね」

美澄は横を向いて唇を尖らせた。

「十秒だと誰でも多かれ少なかれ悪手は出ます。大事なのは悪手のあとに悪手を重ねないことです。気持ちを引きずらずに、その時の最善を尽くすことが……すみません。わかってますよね」

「わかってても、できてないので」

終わりましょうか、と久賀は駒を中央に寄せる。
自身は決して駒袋に触れず、美澄に片付けるよう促す。
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