みずたまりの歩き方
「何かあったんですか?」
唐突な美澄の行動にも、久賀はいぶかしむのではなく心配そうに尋ねる。
しかし美澄は駒ばかり見て、視線を合わせようとしなかった。
王将と玉将、飛車二枚、角行二枚、金将四枚、銀将四枚……。
駒の数を確認しながら、駒袋に入れていく。
「先生」
一、二、三、四。
指先で桂馬を数えながら呼び掛けた。
「私、ここに戻ってきてもいいですか?」
香車も四枚。
駒袋にザララと落とす。
「今後については、日藤先生に相談してください」
「将棋の話じゃありません」
三、三、三、三、三、三。
歩は三枚ずつ六回数えて収める。
袋を縛って、紐を結んで、蓋をして、盤の中央にそっと乗せる。
「将棋の話じゃないんです」
もう一度ゆっくり伝えると、久賀は逃げるようにうつむいた。
「大変ですよ」
自身の手元に向けて言葉を落とす。
「確かに今はどこに住んでも最新の情報が手に入ります。研究会もVS(一対一の研究会)もオンラインで可能だし、そうしている棋士も多いです。だけど、人間関係はそうもいきません。人との繋がりの中から得るものは情報以上に多い。特に女性は、友人が少ないのはつらいでしょう」
二十歳を過ぎてから研修会に入会し、地元にもネットワークのない美澄は、そもそも棋界に知人が少ない。
近い年齢の人は先輩であり、同期はだいぶ年下で、心許せる仲間が少ないことは久賀も馨も気にかけてきた。
「あなたに余計な負担がかかるのは、僕の本意ではありません」
風の音が強くなった。
細かい雪の粒がサリサリと窓ガラスを打つ。
「先生の言うことはもっともです。でも、将棋の話じゃないって最初に言ったじゃないですか。よりよい環境で高みを目指す。届いていない場所に普及する。そういう義務や理想とは全然別次元の、しょうもない話をしてるんです」
久賀は呼吸さえ止めたように動かない。
うなるような鳴き声を上げて風が窓ガラスを叩いた。
同時に雪の粒も激しくぶつかる。
強弱をつけて、体当たりするように何度も何度も。
久賀が沈黙する中で、その音だけが聞こえる。
「帰ります。ありがとうございました」
つっけんどんに言い放って、乱れた椅子を直すこともなく、美澄は足早にドアへ向かう。
「古関さん!」
制止する久賀の声も、美澄を駆り立てるだけだった。
「この雪の中出ていくのは危険です」
「私は先生と違って雪国育ちですから平気です」
「どこに行くつもりですか? 新幹線ももうないのに」
「私ひとり泊まるところくらい、どうとでもなります」