みずたまりの歩き方
「いいえ。先生はもっと自分を認めてあげてください。先生が、自分は頑張っているんだって思えるようになるのを、私が見てますから」
「そんなくだらないことに時間を使うなら、いい詰将棋を紹介しますよ」
「……私に解けるレベルのやつにしてください」
今さら恥ずかしくなって顔を伏せた美澄の頭上で、ところで、と久賀は話を切り替える。
「本当にこれからどうするんですか?」
「うーん。そうですねぇ」
久賀がロールカーテンをめくって外を覗くと、吹雪はやや収まっていた。
「先生のお家、近いですよね?」
パサッと音を立てて、ロールカーテンが元に戻された。
久賀の視線は吹雪から離れ、鋭く美澄へと向けられる。
「僕は構いませんけど、あなたはいいんですか?」
「すみません! 失言でした!」
動揺して後ずさった美澄に、久賀は角砂糖が崩れるように笑ってスマートフォンを開く。
「日曜の夜だから空いてましたよ。駅前のビジネスホテル」
久賀はささっと予約して、コートを羽織る。
「送ります。途中で軽く食べて行きましょうか」
「ありがとうございます。あ、先生」
盤駒を片付けようとして、美澄が久賀を呼び止める。
「負けた方がご飯奢るってことでどうですか?」
「いいですね」
久賀は羽織ったばかりのコートを脱いでカウンターに放った。
「ちょっと待ってください。コンタクトにします」
「え! そんなに本気?」
「当然です」
王将、玉将、……。
おだやかな駒音がつづいていく。
「ところで、ここに戻って私の仕事はあるんでしょうか?」
そもそも高収入とは言えない女流棋士。
しかも駆け出しの美澄にとって、需要は死活問題だ。
「実は、この地域の普及に尽力された先生方が高齢になって、僕への依頼も増えているんです。現役の女流棋士が常駐してくれるのは、正直なところ助かります」
「よかった……」
金将、金将、銀将、銀将……。
「私たち、将棋の話ばっかりですね」
「それは仕方ないですよ」
「将棋以外の話をしてきなさいって師匠命令なんです」
「例えば?」
桂馬、桂馬、香車、香車、……。
「先生の小さい頃の話とか?」
「僕の小さい頃から将棋を取ったら、鉄道の話になりますよ」
「そうだった。このひと、そういうひとだった」
角行、飛車、……。
「あなたの話は?」
「私ですか?」
「キュウリがきらいなこと以外、ほとんど何も知りませんので」
歩、歩、歩、歩、……。
「実は……」
「ん?」
「長ネギもきらいです。煮たり、火を通せば食べられるんですけど、生はちょっと……」
「この調子だと、あまり情報増えませんね」
吹雪の夜は更けていく。
ふたりの時間に封をするように、吹き溜まった雪がドアの前に積もっていった。