みずたまりの歩き方

「何か?」

久賀の態度に含むところはなく、それが美澄には余計に不満だった。

「飛車なんて落として、勝負になるんですか?」

挑戦的な発言を受け、久賀の瞳の色彩が変わった。

「『勝負にならない』って、どっちが?」

ミシミシと氷結していくような怒りに触れ、美澄はひるんだ。
しかし、ひるんだことを悟られたくなくて、より強気な視線をぶつける。

「平手でお願いします」

「それは手加減なしで、ということですか?」

「もちろんです」

「本当にいいんですね?」

「はい」

すみません、と生徒たちに断って、久賀は一度カウンターの中に入った。
リュックからポーチを取り出し、眼鏡からコンタクトレンズに変えて戻ってくる。

「平手ですから、初手はどうぞ」

先手を譲られて、美澄は角道を開ける。
久賀もすかさずスパンと歩を進めた。

攻撃性を孕む二手目。
歩を一枚、たったひとマス進めただけの手は、王手をかけられた時のように美澄を追い詰めた。
あらぬ幻影を追い払い、美澄は着実に駒組みを進めていく。

「古関さん、穴熊に囲っておけば安心だと思ってませんか?」

香車を1八に上げたところで久賀は言った。

「穴熊囲い」は囲う手数はかかるものの、最も堅固な囲いだ。
自玉に不安を抱えず攻められるので、囲えるならば囲っておいた方がいい、と美澄は思う。

きょとんとした美澄の眼前を、飛車が三筋に走って行った。

穴熊の何が悪いの?
三間飛車(さんけんびしゃ)が何なの?

久賀の言う意味がわからないまま、美澄は久賀に噛みつく気持ちで駒を進めていった。

ところが、噛みついても噛みついても一向に手応えがない。
それどころか、噛みついたその牙が脆くも砕けていく。

何を考えているのかわからない。

どんなに美澄が考えても、必ず違う手が飛んでくる。
そしてそれは想定よりもずっと厳しい手ばかりだった。

美澄の頬は熱を持ち、額にじっとりとかいた汗をハンカチで拭う。
けれど久賀は、初手を指したときと変わらない表情で、美澄の首を容赦なく締め上げる。

美澄と久賀の間の異様な空気を感じ取り、指し進めるにつれて背後にはギャラリーが増えた。
しかし、その声は美澄に届いていない。
自分の駒音も手触りもわからない。
何の感情も乗せない久賀の駒音だけが、カチリ、カチリ、と耳の奥で鳴った。
淡々と、いちばん痛い場所に(あやま)たず、その指先は届く。

もいだ実を喰らうように、美澄の攻め駒は久賀に呑まれていった。
背後で上がるささやき声は、もはや悲鳴に近い。
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