みずたまりの歩き方
▲29手 悔やむ手、赦す手
階下でチャイムが鳴っても、綾音が玄関に向かう足音が聞こえたので、美澄は棋譜から顔を上げなかった。
苦い敗戦譜に向かって、ダイブするように突っ伏す。
ゴンッと大きな音がした。
女流棋戦に出るようになって四ヶ月が経つ。
初陣は研究会でやさしく接してくれた先輩と当たり、うれしい気持ちで対局に向かった。
しかし、持ち時間は二時間もあるのに、三十分しか使ってもらえず吹き飛ばされた。
先日は優勢に立ったのに千日手に持ち込まれて、指し直しの末負けた。
鋭く斬られる将棋なら久賀や馨で経験しているが、泥沼を這うように粘られる恐怖はまた別物だった。
ここはやはり甘い世界ではない。
負けたことはもちろん悔しいけれど、強くなっている実感がないことが苦しい。
この感覚を味わうことももう幾度目かになるので、こういう時こそ腐らず努力を続けるべき、と頭ではわかっている。
『僕が保障します。あなたの努力は正しい。ちゃんと前に進んでいます』
行き詰まるたび思い出す御守りは、同時に、見合うだけの努力を続けなさい、という叱咤でもあった。
「頑張ろ……」
ウォーミングアップに詰将棋を解こうと本を開いたとき、ノックの音と、美澄ちゃーん、と呼ぶ綾音の声がした。
「お客さん」
ドアを開けると、綾音は階下を指差して言った。
「私にですか?」
「リビングに通したから」
「ありがとうございます」
綾音の人差し指が、今度は美澄の額に突き立てられる。
「ここ、赤いよ」
えへへ、と笑って額をこすり、美澄は階段を降りた。
「先生!」
リビングのソファーに見えた背中は、青いストライプのシャツだった。
ふり返った久賀は、美澄を認めてふわりと微笑む。
「どうしたんですか? あ、今お茶淹れますね」
コーヒーメーカーに豆と水を入れて、スイッチを押す。
毎日の慣れた作業なのに、手元が覚束なかった。
それでもどうにか香ばしい香りが立ち上る。
「さっき連絡は入れたんですけど」
「すみません。電話見てませんでした」
「そうだと思った。まあ、急だったし」
菓子盆にせんべいをあけて、久賀の前に出す。
電話やメッセージのやり取りはしているが、会うのは久しぶりで、美澄は緊張して固くなっていた。
「今日は倶楽部お休みですよね。何かこっちで用事でしたか?」
「うん。ちょっと」
美澄はカップにコーヒーを淹れて、久賀に出した。
自身には砂糖とミルクを足す。
「棋譜、見ました」
カクッと美澄の首が折れる。
「……すみません。不甲斐ない将棋で。ちょっと行き詰まってて」
しょげる姿に、ふふふ、と久賀は笑う。
「勝てはしませんでしたが、努力の跡はわかります」
「ありがとうございます。やる気出ました」
美澄が微笑むと、久賀も笑う。
たったこれだけのことで、身体の内側にエネルギーが行き渡るのを感じた。