みずたまりの歩き方
『何かありましたか?』
「師匠の看病に行ったら、『風邪がうつったら対局に差し障るから帰れ』って言われたんです。でも、例え対局に影響が出ても、私はそこで帰れませんでした」
耳に直接、うん、という声が届く。
そのぬくもりを追い掛けるように受話口に顔を寄せる。
「いつでも将棋を優先しないと、師匠や先生を失望させてしまいますか?」
いいえ、という返事は即答だった。
『勝てばいいんです』
突きつけられた答えはシンプルで、最も難しい。
子育てしたり、病気になったり、事情を抱えているのは誰でも一緒。
美澄は美澄の事情の中で勝てばいい。
勝たなければならない。
『でも、回避できるリスクは回避すべきです。あえて不利な状況に身を置くことは、本来ならおすすめしません』
「はい。知ってます」
もし永遠を生きられるなら、千年後に別の生き方を選んでもいい。
けれど美澄の人生はせいぜいあと六十年。
少しずつ融通して使うしかない。
「でも、先生がいない穴の全部を、将棋が埋めてくれるわけじゃないです」
青々とした桜の葉に月が光の珠をむすぶ。
久賀の住む街では、まだ花が残っているだろうか。
『会いたい時に『会いたい』と言っていい関係になったのに、会えないのはつらいですね』
舞い降りた言葉に美澄は驚いて、ぱちりとまばたきをした。
「先生でもそんな風に思うんですか?」
『あなたは僕を何だと思ってるんですか』
「『リスク』なんて言うから、一緒にいたいのは私だけかと思ったんです」
『理屈と感情は別物です』
沈黙している踏切を渡ると、線路がずっと続いていた。
誰かの意志で街と街をつなぐ鉄道。
この先に久賀もいる。
『もしもし? 美澄?』
少しぼんやりしていたらしい。
久賀に呼ばれて顔を赤くしながら、美澄は踏切を渡り終えた。
「先生、名前、慣れないのでやめてもらえませんか?」
『予防的措置です。名前で呼ぶくらいしないと、あなたは僕と付き合ってることも忘れてるでしょう』
先生は私を何だと思ってるんですか、と同じ言葉を返した。
「さすがにそれはないですよ」
『いいえ。一人暮らしの男の部屋に行くなんて、自覚がありません』
「一人暮らしの男……って、だって師匠ですよ?」
『馨なんて、熱出たまま沈めておけばいい。対局どうこうの問題じゃない』
「ええーっ! 人でなし!」
『今さら』
春の宵の向こうで、人でなしが笑った。