みずたまりの歩き方
▲31手 金星を掴め
常田は仁木と交互にロールカーテンの隙間から中を覗いた。
「久賀先生、いるよな?」
電気はついているから誰かいるはずなのに、耳を澄ましても物音がしない。
「おーい! 久賀先生ー!」
何度ドアを叩いても久賀は現れず、ガラス扉には手形がいくつも重なった。
しかめっ面の久賀がロールカーテンと鍵を開けたのは、それから五分後のことだった。
「何ですか? まだ十時半ですよ。営業時間まで一時間半もあるじゃないですか」
ぐったりとドア枠にもたれかかり、通り道をふさいだが、
「こんな時に黙って家にいられるわけないよ!」
と、ふたりはずかずかと押し入ってしまう。
しかし、久賀の顔色が異様に白いことに気づいて動揺する。
「久賀先生……大丈夫?」
「大丈夫です。病気ではないので」
「そう言われても、その顔色じゃ……」
常田は痛々しい目で久賀を見ながらソファーに座る。
仁木はお茶を用意しようとして、ポットが空であることに気づいた。
「すみません。忘れてました」
か細い声で久賀が謝罪する。
「いいよ、いいよ、先生。俺やるから休んでな」
仁木は慣れた様子でポットをキッチンに持って行った。
久賀は崩れ落ちるようにソファーに座る。
ほどなく、平川もいつもよりかなり早めに現れた。
「おはようございます。今日は古関さんの対局ですね」
平川のその発言を聞いた途端、久賀は顔を歪め、手で口元を押さえた。
「え……久賀先生、まさか緊張してんの?」
常田の前で取り繕う余裕もなく、久賀は文字通り頭を抱えた。
「中継なんてなければいいのに……!」
女流棋士の対局はほとんど中継されない。
タイトル戦や男性棋士との対局になると棋譜中継されることはあるが、美澄の場合、これまでは対局が終わってから本人が送ってくる棋譜で結果を知るのみだった。
「観てる? 今日の古関さんの中継!」
と磯島もやってくる。
久賀はまた具合悪そうに顔を歪めた。
倉敷藤花戦二回戦。
美澄は初出場ながら初戦を勝ち、二回戦に臨んでいる。
対戦相手は水原万里乃女流王座。
先年まで奨励会に在籍していて、その時に女流王座に輝いた。
以来二連覇中。
奨励会の方は惜しまれつつ二段で退会したけれど、各女流棋戦で活躍している新進気鋭の若手女流棋士だ。
今回の対局が棋譜中継されるのは、ひとえに水原の人気ゆえのものだった。