みずたまりの歩き方
危ない、と馨が指摘した展開で対局は進行して行った。
切り返しがうまく行って、水原有利の状況が続いている。

「あれ? 久賀先生は?」

辺りを見回す仁木に、常田は画面を見たまま答える。

「トイレに吐きに行った」

戻ってきていた久賀が、青白い顔のまま反論する。

「吐いてません。気持ち悪くなっただけです」

「同じだよ」

二の句が継げない久賀に、平川はあたたかいほうじ茶を差し出した。
美澄が女流棋士になってから、久賀の胃を気遣って平川が用意したものだ。

「慣れませんよ」

そう言われて、久賀は礼を言いそびれた。
気にした様子もなく平川は続ける。

「私も今吐きそうです」

「そうなんですか?」

「教え子の大一番は、何度経験してもしんどいものです。久賀くんが出た小学生名人戦も、事前に結果を知っていたのに胃は痛みました」

取り繕うのはうまくなりますけどね、と平川は笑ってカウンターの中に戻っていく。

自分が戦っているときは考えもしなかった。
久賀が三段リーグを戦っていたとき、平川もずっと胃の痛みと戦ってくれていたのかもしれない。
くたりとした平川の背中は、あの頃と変わらず大きく見えた。

昼休憩を挟み、水原の駒はさらに躍動していった。
美澄は耐える時間が続いていて、もし久賀との対局であれば「ああ、もうやだ!」と声を上げていたに違いない。

ただ、ぎゃあぎゃあ喚きながらもポキリと折れないのが美澄の長所でもある。
香取りを狙う水原の角にも、必死の読みで対抗している。

「次、どうするんだろう」

磯島が脚を組み替えてうなった。

「香車は捨てた方がいいです」

呟いた久賀に、常田が視線で尋ねる。

「香車を守っていると、先手の攻めが続いていきます。香車は諦めて、ここで攻勢に転じるべきです」

ふんふんと常田はうなずく。
攻守の切り替えは誰しも悩むところで、美澄は殊にそれを見誤る。
気づけ! とタブレットを叩きたい衝動を抑えていた。

「あ、久賀先生!」

仁木が久賀の腕をバシバシ叩いた。
美澄は香車を捨て、自陣に一度手を入れた。
そして水原が香車を取っている間にと金を寄り、歩を進め、着実に攻めていく。

「あ、これいいんじゃないですか」

平川がそう言って、倶楽部内にホッとした雰囲気が流れた。
それぞれがトイレに行ったり、営業準備をしたり、休憩ムードが漂う。

営業時間になり、平川がブラインドを上げた。
対局も昼休憩に入ったので、常田たちもそれぞれ持参した弁当やカップラーメンを広げている。

しかし久賀はタブレットを見て動かない。
美澄の攻めは悪くはないが、水原の受けが絶妙で、押し返される形となっていた。

「久賀先生?」

トイレから戻った磯島が、ハンカチで手を拭きながら隣に座った。

「何かまずい?」

ここ、とタブレットの画面を指差す。

「歩を打たれると逆転されます」

久賀の背後に常田と仁木、平川が並ぶ。

「歩を打って、桂馬で取った場合、取って、取って、桂打ち。これで両取り。歩で取った場合、取って、取って、香車の田楽刺し。どちらの場合も駒損が大きいです」

「どうしたらいいんだ?」

「銀引いたのがまずかったです。現状防ぐ術はありません。ただ、水原さんもバランスの取り方が難しいので、第一線では考えてないと思います」
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