みずたまりの歩き方
▲33手 いつかへ
美澄が当たり前のように、ただいまぁ、とあさひ将棋倶楽部のドアを開けると、久賀はわからない程度の笑みを混ぜて迎えた。
カウンターの中から平川が手を上げる。
「ああ、古関先生おかえりなさい」
「お疲れ様です」
「どうでしたか? 指導は慣れました?」
ライトグレーのセットアップに身を包んだ美澄は、苦笑いで顔を歪めた。
企業から依頼されて将棋部の指導に行くことも数度目であるが、そのたびに棋力、指導力、人間力、すべてが力不足であると感じている。
「おひとり強い方がいて焦りました」
「竹下さんかな?」
「そうです。ご存じでしたか」
「竹下さんは大学時代、学生王座戦でベスト4まで行ったメンバーだそうです」
「どうりで」
美澄は勝手にキッチンに入り、だいぶ煮詰まったコーヒーをカップに注いで砂糖とミルクをたっぷり入れる。
ソファーで寛いでいると、久賀が目の前にやってきた。
「ここはあなたの職場でも自宅でもありませんよ」
棋士も女流棋士も個人事業主なので、美澄はあさひ将棋倶楽部に所属しているわけではない。
しかし美澄は心底不思議そうな顔をする。
「だって、先生がここにいるんだもん」
虚を突かれたような久賀の両肩に、突然フリルつきの袖が回って首を締めつける。
「……みゆちゃん、苦しいから降りて」
久賀が美澄の相手をしていることが不満らしい。
右肩から覗く少女の顔は怒っていて、まったく聞き入れる気配がない。
「久賀先生ー。わかんなーい」
机で詰将棋を解いていた男の子が手を上げたので、久賀は「みゆちゃん」を背中に乗せたまま少年の元へ向かった。
「時間は気にしなくていい。ゆっくりで考えて」
「ゆっくり考えてもできない」
考えることを放棄した顔に、美澄は深く共感する。
マグカップを口元で止めたまま、じっとふたりのやり取りに聞き耳を立てた。
「大丈夫、できるよ」
「できない」
「じゃあ初手だけ教えるね」
久賀は飛車を持ってくるりと裏返した。
「続きは考えてみようか」
譲歩を引き出した少年は、さすがにこれ以上は悪いと思ったようで、しぶしぶうなずいた。
盤に向き合う少年の後頭部に、久賀はふんわりと笑みを落とす。
「頑張れ」