みずたまりの歩き方
美澄の視線が空に向いた隙に、隣でバシャンと音がした。
少年が雨の中に駆け出して行く。
「いや、待って、待って!」
美澄も傘を広げて雨音の中へ走り出す。
すでに濡れていたパンツはさらに重みを増し、コットンスニーカーにも冷たさが染みてきた。
信号で立ち止まった少年の頭上に傘を差し掛けると、諦めたように身体の力を抜いた。
「ごめん。しつこくして。でも、こっちも乗り掛かった船っていうか……あ、『乗り掛かった船』ってわかる?」
「わかりません」
「中途半端なまま放り出しちゃうと、私の居心地が悪いの。お金出すから傘買うか、家まで送らせるか選んで。悪いけど」
少年は左腕に巻いたデジタルの腕時計を覗き込んだ。
「これから将棋倶楽部で」
「将棋倶楽部? どこ?」
ためらいがちに指差したのは、ひっそりとした通りだった。
保険会社のビルとスポーツクラブと月極駐車場とマンション。
その保険会社の手前の通りを、美澄が乗るはずだったバスが曲がって行った。
少年のスニーカーに合わせて、ひとつの傘の下を歩く。
「将棋やるんだ」
「うん」
「私も好きだよ、将棋。将棋スペース81で初段」
有名な対局サイトの名前を出すと、少年はキラリと光る目を美澄に向けた。
「おれは2級」
「小学生で2級ってすごくない!?」
「おれレベルなんていっぱいいるよ。もう五年だし、全然上がれないし」
不満を口にする少年に、美澄も強く同意する。
「私も。初段から二段の昇段ってさ、連勝規定厳しいよ」
「三連勝くらいまではできるんだけど、その後になるとAIにぶつかる確率上がるからね」
「そうそう!」
目指す将棋倶楽部は二ブロックほど先で、小さな横断歩道を渡った先にあった。
『あさひ将棋倶楽部』
この春駅前の雑居ビルから移転してきたばかりで、その前は学習塾があった場所だ。
さらにその前はコンビニで、建物は今もその名残がありありと見える。
大きなガラス窓の向こうでは、年齢層も幅広い人たちが、椅子に座って将棋を指していた。
「ありがとうございました」
少年は礼儀正しく頭を下げる。
傘立てに突っ込む折れた傘を見ながら、美澄は尋ねた。
「帰りは大丈夫?」
「六時になったら、お母さんが迎えにくるから」
「そっか。頑張ってね」
見送るつもりが、少年の頭から雫が落ちるのが見えて、入口のガラス扉を抜けた。
中はやはりコンビニの名残があり、入ってすぐ右手にカウンター、左手奥にトイレがある。
広いフロアにはたくさんの机と椅子が並べられ、そのすべてに将棋盤と駒、チェスクロック(持ち時間を計るための時計)が置かれてあった。
正面奥には長テーブルがコの字に組まれたスペースがあり、その中央には大盤(解説用の大きな将棋盤)が設置されたホワイトボートがある。
コンビニだったときには、おそらくコーヒーマシーンが置かれていたであろう場所が受付だった。
少年はそこにいる二十代半ばくらいの男性に挨拶して、マジックテープの財布から会員証を出す。
美澄はそんな彼の頭を、タオルハンカチでゴシゴシと拭いた。
少年が雨の中に駆け出して行く。
「いや、待って、待って!」
美澄も傘を広げて雨音の中へ走り出す。
すでに濡れていたパンツはさらに重みを増し、コットンスニーカーにも冷たさが染みてきた。
信号で立ち止まった少年の頭上に傘を差し掛けると、諦めたように身体の力を抜いた。
「ごめん。しつこくして。でも、こっちも乗り掛かった船っていうか……あ、『乗り掛かった船』ってわかる?」
「わかりません」
「中途半端なまま放り出しちゃうと、私の居心地が悪いの。お金出すから傘買うか、家まで送らせるか選んで。悪いけど」
少年は左腕に巻いたデジタルの腕時計を覗き込んだ。
「これから将棋倶楽部で」
「将棋倶楽部? どこ?」
ためらいがちに指差したのは、ひっそりとした通りだった。
保険会社のビルとスポーツクラブと月極駐車場とマンション。
その保険会社の手前の通りを、美澄が乗るはずだったバスが曲がって行った。
少年のスニーカーに合わせて、ひとつの傘の下を歩く。
「将棋やるんだ」
「うん」
「私も好きだよ、将棋。将棋スペース81で初段」
有名な対局サイトの名前を出すと、少年はキラリと光る目を美澄に向けた。
「おれは2級」
「小学生で2級ってすごくない!?」
「おれレベルなんていっぱいいるよ。もう五年だし、全然上がれないし」
不満を口にする少年に、美澄も強く同意する。
「私も。初段から二段の昇段ってさ、連勝規定厳しいよ」
「三連勝くらいまではできるんだけど、その後になるとAIにぶつかる確率上がるからね」
「そうそう!」
目指す将棋倶楽部は二ブロックほど先で、小さな横断歩道を渡った先にあった。
『あさひ将棋倶楽部』
この春駅前の雑居ビルから移転してきたばかりで、その前は学習塾があった場所だ。
さらにその前はコンビニで、建物は今もその名残がありありと見える。
大きなガラス窓の向こうでは、年齢層も幅広い人たちが、椅子に座って将棋を指していた。
「ありがとうございました」
少年は礼儀正しく頭を下げる。
傘立てに突っ込む折れた傘を見ながら、美澄は尋ねた。
「帰りは大丈夫?」
「六時になったら、お母さんが迎えにくるから」
「そっか。頑張ってね」
見送るつもりが、少年の頭から雫が落ちるのが見えて、入口のガラス扉を抜けた。
中はやはりコンビニの名残があり、入ってすぐ右手にカウンター、左手奥にトイレがある。
広いフロアにはたくさんの机と椅子が並べられ、そのすべてに将棋盤と駒、チェスクロック(持ち時間を計るための時計)が置かれてあった。
正面奥には長テーブルがコの字に組まれたスペースがあり、その中央には大盤(解説用の大きな将棋盤)が設置されたホワイトボートがある。
コンビニだったときには、おそらくコーヒーマシーンが置かれていたであろう場所が受付だった。
少年はそこにいる二十代半ばくらいの男性に挨拶して、マジックテープの財布から会員証を出す。
美澄はそんな彼の頭を、タオルハンカチでゴシゴシと拭いた。