みずたまりの歩き方
「先生、盤と駒をお借りしていいですか?」
キッチンでポットに湯を入れていたら、美澄が入口から顔を覗かせて言った。
「まだ営業時間前なんですが」
「だめですか?」
美澄は棋書に指を挟んで持ち、そわそわと久賀を見上げている。
今読んだばかりの手順を試してみたくて仕方ないようだ。
「しまってある場所はわかりますよね。勝手に出して使ってください」
「ありがとうございます!」
久賀が雪掻きをして、引戸にくっついた氷片を割り取って戻ると、美澄は棋書を見ながら一心に駒を動かしていた。
美澄が使っている机を残し、すべての机を拭き上げても、一向に終わる気配がない。
「そこ、拭きたいのですが」
そう声をかけると、美澄は無言で盤を持ち上げる。
サッと拭いた久賀は隣の机に布巾を放り、美澄の目の前に座った。
「さっきから全然進んでいませんね」
駒を初形に戻していく久賀を見て、美澄は目を輝かせた。
「教えてくれるんですか?」
「ただ働きはしません」
「……おいくらですか?」
久賀は倶楽部の一角を指差す。
「トイレ掃除、でどうですか?」
「よろしくお願いします!」
まだあんまり頭回ってないんですけどね、と首を回していると、美澄の視線が久賀の顔に向けられた。
「先生って普段は眼鏡ですよね。コンタクトにするのはどういう時なんですか?」
「対局の時です。フレームが盤にかかると集中できないので」
なるほど、と美澄はうなずく。
「でも、棋士って眼鏡の人多いですよね」
「こういうことは個人差がありますから。一分将棋になった時、コンタクトがずれるのをきらう人もいますし、それぞれです」
ぼんやり話す久賀に、美澄はにっこりと笑う。
「それなら今チャンスですね」