みずたまりの歩き方
二月深夜の空気は、耳を切り裂くほどに冷たい。
雪は降っておらず、冴え冴えとした月光が世界を凍りつかせているようだった。
歩くたびに雪もパリパリと音がする。

大通りに出たらすぐにタクシーが見つかると思ったのに、住宅街ではなかなか出会えず、結局タクシー会社まで十分歩いた。
その間に頭をめぐらせても、とにかく行ってみる以外の方法は思い浮かばない。

真依の彼氏の家は、美澄の住むアパートとは大学を挟んで反対側の、住宅街の一角にある。
以前一度、彼女に頼まれてついて行ったことがあった。
その時彼氏は不在だったが、アパートではなく一軒家で家族と住んでいるようだった。

記憶をたどって着いた家は古い二階建てで、赤茶に焼けたトタンの屋根に重く雪が積もっている。
門扉があり、そこから3mほど入ったところに板チョコに似た玄関ドアがある。

タクシーは待たせたまま向かった。
物音はせず、二階の電気だけがついている。
ここまで来たのだから、と思い切ってチャイムを鳴らしたが、しずまり返ったままだった。
もう一度チャイムを鳴らしても反応がないので、真依に電話しようかと思ったところで、階段を下りる音が聞こえてきた。
ガチャリと乱暴にドアが開く。

「夜分遅くすみません。こちらに辻村真依はいませんか?」

予想に反して、出てきたのは野獣ではなく、きれいな男の人だった。
さらりと流れた髪が目にかかり、妖しげな色気をかもし出している。
しかし、澄んだ月明かりの下で見るその目は、この世ならざるもののようにどんよりと濁って見えた。
やや伸びたTシャツの襟ぐりから、タトゥーの一部が覗いている。

「誰?」

黄泉へと通ずる深淵から声がしたようで、美澄の背中を震えが走った。

「真依の友人で、古関美澄といいます。真依を迎えにきました」

お腹の底に力を込めていうと、男は無言でドアを閉めた。
階段を昇る音がしなくなると、ふたたび静寂が広がる。
風が庭木の枝を揺らし、バサバサと音がした。
見えてはいけないものが見えてしまいそうで、美澄は人生で初めて、小声で念仏を唱えていた。

まもなく二階から玄関までひと息に駆け降りる音がして、真依が姿を見せる。

「美澄!」

「真依! 大丈夫?」

「大丈夫。ありがとー!」

「とにかく早く帰ろう」

見えない触手が迫ってくるように思えて、美澄は真依の背を押して逃げ出した。

一人になりたくないという真依の希望で、ふたりで美澄のアパートに帰った。
途中のままのパソコンを片づけ、母親が来たときに使う客用布団を敷く。
ゴロンと寝転んだ真依は、目の前にあった棋書をパラパラとめくって、つまらなそうに放り出す。
美澄はすぐにそれを拾い上げて、チェストの上に置いた。
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