みずたまりの歩き方
真依と九時に家を出て、美澄は倶楽部へと向かった。
昨夜吹きつけられた雪で、あちこちの壁は白く塗り替えられている。
休むと伝えてあるのだから、久賀は通常の出勤時間まで来ないだろう。
それでも風除室前で待っていれば、少しは早く倶楽部に入れる。
ところが、着いてみると風除室の引戸は雪が払われ、カラカラと小気味良く開いた。
「おはようございます」
伺うように顔を覗かせると、久賀はまだコートを着たまま、机をひとつひとつ拭き上げているところだった。
「おはようございます」
「先生、早いですね。まだ九時半ですよ」
「あなたはいつ来るかわかりませんから」
「だけど、私しばらくお休みしますって伝えましたよね」
「でも、来たじゃないですか」
いつかの美澄のように久賀はそう言って、ピッとトイレを指差す。
美澄はうなずいて、脱いだダウンを椅子の背にかけた。
トイレ掃除を済ませてから、久賀と盤を挟んだ。
二週間休んでいたことの方が不自然に感じるほど、駒は指肌にしっくりと馴染む。
チェスクロックを叩くたび、血のめぐりが整えられていくようだった。
しかし、気持ちとは裏腹に内容は散々で、序盤の早い段階で形勢を損ねる。
そのまま、まったく対処できずに投了となった。
「敗着はわかりますか?」
対局を終え、感想戦に入ったとき、久賀は手早く盤面を戻しながら言った。
表情も声もいつもと変わらないが、その苛立ちは骨を軋ませるほどに伝わってくる。
「序盤の……銀上がった……」
「その通りです」
目を見られずに答えた美澄に、久賀はピシリと言う。
「なぜその手を?」
「攻めの形を作りたかったので、とにかく銀を前に出そうと思って」
「角の利きを止めてまで?」
角の進路に居座る銀を、久賀はコンコンと指先で叩いた。
美澄にはこれ以上言えることは何もない。
「以前お渡しした金森先生の研究書は読みましたか?」
知らず知らずバッグに手を添えていた。
栞を挟んだままのその棋書が、今もそこに入っている。
「いえ、まだ全部は」
「そうでしょうね。読んでいればこんな手を指すはずありませんから」
「すみません」
「あの著書は、この変化の多くを扱っています。もちろん最新の研究はもう少し進んでいますが、基礎知識として最低限知っておくべき内容です」
「すみません」
「終わりにしましょう。話になりません」
ザラッと久賀は駒を崩した。
数えながらさっさと駒袋に収めていく。
怠惰をして読まなかったわけではない。
むしろ寝る時間も惜しんで、毎日少しずつでも読み進めていた。
課題も多かった。
真依のトラブルもあった。
美澄はまだ学生で、棋士や講師と違って将棋だけしていられる立場ではない。
でも、
━━甘えていた。
言い訳は許されない。
目の前にいるひとは、家族でも友人でもなく、将棋の講師なのだ。
美澄がどんな状況にあるのか、その中でどれほど努力したのか、慮る必要はない。
今目の前に提示された将棋だけがすべて。
この世界において、それは絶対的な価値観だ。
久賀は美澄の存在を無視して、すべての机に盤駒とチェスクロックを置いていく。
美澄も声をかけず、そっとドアから外に出た。
まぶしいほどの青空が広がっていた。