みずたまりの歩き方
拭き終えたブラインドを上げると、やわらかな陽光が差し込んだ。
春の気配を帯びたそれに、無数の埃が舞って見える。
その向こうで久賀が言った。

「もっともっと努力してください。限界を感じたなら、それを越えてください。全力を出す、とは並大抵のことではありません」

「……はい」

久賀が努力をしてこなかったとは思えない。
「努力が足りなかった」と言い切るのは、単に結果がついてこなかったことを言っているだけなのか、それとも消えない悔いがあるのか、美澄にわかるはずもなかった。

ブラインド掃除を終えた久賀は、カウンターに放り投げていた青いチェック柄のシャツを羽織る。

「先生」

「はい」

「ずっと気になってるんですけど、先生はなんでTシャツの裾をパンツに入れちゃうんですか?」

久賀の黒いTシャツの裾は、今日もベージュのパンツにしっかりと収納されていた。
その姿を美澄はまともに見つめる。
久賀は難しい変化を読むとき以上に厳しい表情をした。

「……特に、考えたことがありません」

「高度なおしゃれですか?」

「……ではないです」

「ですよね」

久賀は持っていたバケツを床に置いて、カウンターに寄りかかった。

「奨励会では、襟のついた服でないとだめだったんです。それからデニムは禁止でした」

久賀の青いシャツとベージュのパンツの理由は、そこにあるらしい。

「それから、シャツの裾はパンツの中に入れるよう指導されていました」

「中に!? シャツも!?」

「はい」

還暦はとうに過ぎているという常田や磯島と、それはまったく同じスタイルだった。
きちんとした格好で、という意図であることはわかるけれど、二十六歳以下の若い男子が、あのふたりのファッションを強いられるのはどうなのだろう。

「そういう古関さんは、カマキリのコスプレですか?」

美澄のニットは目立つエメラルドグリーンをしている。
両肩にふたつずつ大きなリボンがついていて、動くたびにそれが跳ねた。

「違います。このニット、私は『枝豆』って呼んでます」

「カマキリでしょ。カマみたいなヒモがついてるし」

「これはリボンです。枝豆の葉っぱみたいでかわいいじゃないですか」

「気が散りませんか?」

「いいえ。かわいいです」

へえ、と久賀は気のない返事をして、バケツを持ち上げた。

「今日が定休日でよかったです」

「どうしてですか?」

「外から見て倶楽部にカマキリのコスプレしてる人がいたら、びっくりしてお客さんが帰ってしまいますから」

えー、と不満をぶつけても、久賀はそのままスロップシンクへ向かう。
ジョークというわけでもないらしい。

この件に関して、ふたりの溝はかなり深いようだった。


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