みずたまりの歩き方

「お待たせしました。席主の平川(ひらかわ)です」

先ほどの男性に代わって、六十代と思われる男性が現れた。
髪の毛はふさふさしているけれど、その色は画用紙に鉛筆をやさしく走らせたようなパサッとした灰色だ。

「えーっと、古関(こせき)美澄さん?」

「はい」

「学生さん?」

「大学三年です」

「スペース81で初段だそうですね」

「はい」

「棋歴は長いんですか?」

「小学生のとき二年くらい。それからずっとやってなかったんですけど、去年たまたま興味を持って再開したばかりです」

大学の同級生と付き合ったら、その彼が将棋部だった。
恋の方はあっけなく終わったけれど、将棋は恋愛以上に熱中して続いている。

「ほう、それはそれは」

平川は茶色い縁のメガネの奥で目を細め、盤の上にザラッと駒を広げる。
それは宝石商がこっそりと革袋から取り出した希少鉱物のようにも、こっくりと甘いべっこう飴のようにも思えた。
美澄はその艶やかな一片に手を伸ばす。

「おや、ちょっと待ってくださいね。失礼ですが、駒の並べ方はご存じですか?」

「並べ方……って決まりがあるんですか?」

平川は一瞬考えて、おだやかに尋ねた。

「もしかして、対面で指されるのは初めて?」

「いえ、小学生のとき何回か。あとは去年一度だけ」

そういえばその元彼に、並べ方も知らないのか、とバカにされたような記憶がある。
不快感とともにその記憶ごとしまい込んでいた。

「ああ、なるほど」

平川は王将を取って自分の前に並べる。
ピアノを弾くときのような、ふわりとした不思議な手つきだった。
やはり駒を人差し指と薬指で持ち上げ、人差し指と中指に挟むように持ち替えてからピシリと置く。
受付の男性の五百円玉の扱い方は、将棋を指す人の手つきだったらしい。

「上位者である上手(うわて)が先に王将を並べ、次に、」

揃えた指先が玉将に伸びる。

「下位の下手(したて)が玉将を並べます。相手の(ぎょく)に触れるのはマナー違反です。では、どうぞ」

美澄は言われるままに玉将を取った。
一度取り落とし、ごく普通に親指と人差し指で摘まんで並べる。
あの男性や平川の手つきを見たあとだと、自分の手がひどく不恰好なものに思えた。

「次に金将を左から。次に右。銀将も左から。次に右」

平川の指示に従って、美澄は駒を並べていった。
カチリ、カチリ、と木のぶつかる心地よい音がする。
サイトで指す時のスパンという音も気持ちいいけれど、生身の駒は平川には平川の音、美澄には美澄の音がそれぞれある。

ズラリと並んだ駒は壮観で、よく磨かれた駒に蛍光灯の明かりが反射していた。
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