みずたまりの歩き方
倶楽部に入ると、久賀の視線が美澄の全身をさっと走った。
「……先生、どうかしました?」
「あ、いえ。今日は珍しく落ち着いてるな、と思いまして。いや、これで『落ち着いてる』って感じる僕もどうかと思いますけど」
今日の美澄は、淡いベージュの格子模様のワンピースに、ちょこんと赤いベレー帽を載せている。
それは一見すると、シンプルな秋の装いに見えた。
「今日のテーマは『マヨネーズ』なんです」
「………………マヨネーズ」
将棋盤を挟んだ時には絶対見せないような表情で、久賀はくり返した。
「本当はこう……斜めに赤いラインが入ってたら理想的だったんですけどね」
手で理想的なラインを表現する美澄に、久賀は少し首をかしげて尋ねる。
「ふざけてます?」
「いいえ」
美澄はいたって真面目な顔で久賀を見つめ返した。
「ふざけてるように見えます?」
「ふざけてないのに『マヨネーズ』……」
口元に手を添えて、久賀は咀嚼するように小さくうなずいた。
「居飛車と振り飛車ってかなり感覚が違うと思ってましたけど、」
「はい?」
「僕とあなたの感覚のずれは、それ以上みたいです」
真顔でそんなことを言い放って、久賀はふたたびパソコンに向き直った。
土日の倶楽部は、十時に開いて十八時に閉まる。
その後も久賀は、情報を集めたり、指導のための教材を作ったりしているようだった。
「三手詰めですか?」
パソコンディスプレイを覗いて美澄は尋ねた。
例の悪夢が頭をよぎるが、その問題は見た瞬間にしっかりと詰んだ。
「一手詰めから三手詰めにレベルを上げるとき、持ち駒で引っ掛かる子がいるんです。だから、持ち駒なしから始めて、次に持ち駒ひとつ、その次に取った駒を使う、と細かく段階をつけられたらいいな、と思って」
将棋が他のボードゲームと違う大きな要素が「持ち駒」で、これがあるからかなり複雑なゲームとなっている。
最初は持ち駒を計算に入れることが難しく感じる子もいるだろう。
「この問題は先生が作ったんですか?」
「全部ではありませんが」
「詰将棋、得意ですもんね」
久賀は奨励会時代、毎年詰将棋解答選手権に出ていた。
入賞こそしていないが、プロも参戦する最高難度のクラスで受験していたし、詰将棋の創作もしているようだ。
「先生、難しい詰将棋が解けるようになれば、終盤力も上がりますか?」
美澄は簡単な十五手詰めまでしか解けないが、世の中には百手を越える詰将棋もたくさんあるし、手数は少なくても難度の高い作品もある。
ひとつの問題を数日かけて解くことも珍しくない。
久賀はたっぷり五秒は考え込んだ。
「難しいところですね。詰将棋には詰将棋特有の型があって、それは実戦とは別物ですし。詰将棋が得意だから棋力が高いのではなく、棋力が高いから詰将棋“も”解ける、と考える人もいるくらいですから」
「じゃあ、詰将棋って意味ないんですか?」
「そんなことはないと思います。ただ、レベルが上がれば詰将棋だけで棋力を伸ばすことは難しいと思います」