みずたまりの歩き方
「始めましょうか」
「はい」
久賀が王将を並べ、続いて美澄が玉将に手を伸ばす。
「……古関さん、痩せましたね」
指を見つめて言うので、美澄はパッと手を引っ込めた。
「セクハラですよ、先生」
「事実を言っただけじゃないですか」
「最近乾燥してガサガサなので、あんまり見ないでください」
久賀が先手で居飛車穴熊、美澄も中飛車で穴熊に囲って、しばらくは相穴熊の定跡形が続いた。
しかし中盤。久賀の指した手を見て、美澄は深く考えに沈む。
角? 歩突きじゃなくて?
当然三筋から攻めてくると思った久賀が角を上がった。
美澄の攻めを警戒した手であることはわかるが、素直に三筋を攻めるよりもややバランスが悪い。
失着? でも先生が?
読みにない手、ミスだと思われる手を指された時、自分がその相手をどれだけ評価しているかが展開を左右する。
それを「信用」という。
単純なミスでも強い相手であれば、この人が指すならミスではなく深い読みに裏付けされているかもしれない、と警戒されて、失着を見逃す場合もある。
自分の読みを信じるか、相手を信用するか。
ちらりと久賀をうかがったが、表情からは何も読み取らせてもらえない。
美澄は久賀の角を歩で受けたあと、呼吸を整えて攻めに転じた。
その後、徐々に徐々に美澄が久賀を追い詰める展開になっていく。
あと一手、あの銀を仕留めれば勝てる。
息も絶え絶えにそこまで攻め続けた美澄に、久賀はそんな瀕死の状態から猛攻を仕掛けてきた。
あと一手手番が回ってくれば勝ちに持って行けるのに、久賀はその手番を与えてくれない。
桂馬を打って、成って、角を切って、銀を打って。
王手、王手、王手、王手、……。
美澄の手番は全然やってこない。
あと一手が遠い。
からがら久賀の猛攻を耐え切った美澄は、やっとの思いで念願の銀を取って、歩を成る。
「負けました」
久賀が投了を告げてチェスクロックを止めても、美澄は顔を上げる力さえ残っていなかった。
将棋は勝ったとき、あからさまに喜びを表さない。
それは目の前の敗者に対する礼儀という理由もある。
が、一手間違うと途端に逆転される勝負において、勝っている方は相手が投了するまでミスできない緊張が続く。
手順を何度も確認し、絶対に間違えないように神経を尖らせ、不安からくる疑心暗鬼と戦う。
だから、勝ったときには喜びよりも、負けなかった安堵の方が大きい。
初めて久賀に勝っても、美澄は負けた時以上に消耗していた。