みずたまりの歩き方
ようやく勝利を実感した美澄は、ほころぶ顔を抑えつつ、盤面を初形に戻す。
「先生、もう一回」
盤から顔を上げると、目線はちょうど久賀の襟元にぶつかる。
ふと、違和感を持った美澄は、その肩へと視線を滑らせた。
「先生」
「はい」
「シャツ、裏返しじゃないですか?」
美澄が指差す一点に、久賀も視線を向けた。
肩と袖の縫い目が外側になっている。
久賀は大きな手で口元を覆ったが、耳がほんのりピンク色に染まっていた。
「敗因はこれでしたか」
後ろを向いて一度シャツを脱ぎ、表に返して着直した。
「先生、ボタン」
指摘されて、あたふたと襟のボタンを留める。
「大丈夫ですよ、先生。裏も表もあまり変わらないから、誰も気づいてないですって」
絶対に数人は気づいただろうと思いつつ、美澄は一応の嘘をつく。
「慰めてくれなくて結構です」
「これからはリバーシブルのシャツを着たらいいんじゃないですか? 結構かわいいやつありますよ」
「無理です。あなたの『かわいい』は独特ですから」
「服の着こなしは『俺、似合う!』と思い込むところからですよ」
「それ、僕には生涯越えられないハードルです」
久賀は美澄のカナリアイエローのニットを見る。
「古関さんは派手好きですからね」
「だって、冬は世界から色が抜け落ちる季節じゃないですか。せめて洋服くらい華やかにしないと」
「秋にも『世界が色づく季節だから、華やかにしないと』と言っていたこと、忘れてるでしょ」
「明るい色の服を着てると、気持ちも明るくなるんです」
「では、いつも地味な服を着てる僕は、いつも気持ちが沈んでいるように見えますか?」
美澄はぱちくりとまばたきをした。
「……見えるんですね」
「いえ! 確かに最初はちょっと暗い感じがしましたけど、最近はそうでもないです」
久賀は不貞腐れたように、窓の方を向いてしまう。
「でも先生、いろんな色を着られるようになるって、大事だと思うんですよ」
美澄はニットの袖を少し引っ張った。
「ピンクも黄色も青も似合う人が敢えて着る黒と、黒しか着られない人が着る黒では、見え方が全然違うと思うんですよね」
意外にも久賀は深く同意した。
「それはなんとなくわかります。アマチュアが第一感で指した手と、プロ棋士が深い読みを入れて指した手が同じだったとしても、そこに含まれる意味には雲泥の差がありますから」
ほらほら! と美澄は手を叩いて喜ぶ。しかしすぐに
「あ、でも、」
と、頬杖をついて久賀を見つめた。
「先生には、ずっとそのままでいてほしいかも」
「どっちなんですか」
盤の向こうに見える景色は、青いシャツであってほしい。
美澄は漠然とそう感じていた。
「じゃあ先生、気を取り直してもう一回」
「先生、もう一回」
盤から顔を上げると、目線はちょうど久賀の襟元にぶつかる。
ふと、違和感を持った美澄は、その肩へと視線を滑らせた。
「先生」
「はい」
「シャツ、裏返しじゃないですか?」
美澄が指差す一点に、久賀も視線を向けた。
肩と袖の縫い目が外側になっている。
久賀は大きな手で口元を覆ったが、耳がほんのりピンク色に染まっていた。
「敗因はこれでしたか」
後ろを向いて一度シャツを脱ぎ、表に返して着直した。
「先生、ボタン」
指摘されて、あたふたと襟のボタンを留める。
「大丈夫ですよ、先生。裏も表もあまり変わらないから、誰も気づいてないですって」
絶対に数人は気づいただろうと思いつつ、美澄は一応の嘘をつく。
「慰めてくれなくて結構です」
「これからはリバーシブルのシャツを着たらいいんじゃないですか? 結構かわいいやつありますよ」
「無理です。あなたの『かわいい』は独特ですから」
「服の着こなしは『俺、似合う!』と思い込むところからですよ」
「それ、僕には生涯越えられないハードルです」
久賀は美澄のカナリアイエローのニットを見る。
「古関さんは派手好きですからね」
「だって、冬は世界から色が抜け落ちる季節じゃないですか。せめて洋服くらい華やかにしないと」
「秋にも『世界が色づく季節だから、華やかにしないと』と言っていたこと、忘れてるでしょ」
「明るい色の服を着てると、気持ちも明るくなるんです」
「では、いつも地味な服を着てる僕は、いつも気持ちが沈んでいるように見えますか?」
美澄はぱちくりとまばたきをした。
「……見えるんですね」
「いえ! 確かに最初はちょっと暗い感じがしましたけど、最近はそうでもないです」
久賀は不貞腐れたように、窓の方を向いてしまう。
「でも先生、いろんな色を着られるようになるって、大事だと思うんですよ」
美澄はニットの袖を少し引っ張った。
「ピンクも黄色も青も似合う人が敢えて着る黒と、黒しか着られない人が着る黒では、見え方が全然違うと思うんですよね」
意外にも久賀は深く同意した。
「それはなんとなくわかります。アマチュアが第一感で指した手と、プロ棋士が深い読みを入れて指した手が同じだったとしても、そこに含まれる意味には雲泥の差がありますから」
ほらほら! と美澄は手を叩いて喜ぶ。しかしすぐに
「あ、でも、」
と、頬杖をついて久賀を見つめた。
「先生には、ずっとそのままでいてほしいかも」
「どっちなんですか」
盤の向こうに見える景色は、青いシャツであってほしい。
美澄は漠然とそう感じていた。
「じゃあ先生、気を取り直してもう一回」