みずたまりの歩き方
「寝てなかったでしょ」
「寝てましたよ。……少しは」
「ご飯は? 食べてましたか?」
「お腹がすいたら、適当に」
久賀の深いため息が、真っ白な布団にぶつかった。
「少なくとも毎日五時間、いえ六時間は寝てください。ご飯は面倒でもちゃんとしたものを食べてください。目の前の一局を勝つためではなく、長期戦なのですから、休むことも戦いの一環です」
「『限界を越えろ』って言ったり、『休め』って言ったり、先生の要求は難しいです」
他に二人いる同室の患者は、それぞれ談話室とシャワールームに行っていた。
窓の外は吹雪なのに、風の音ひとつ聞こえない。
月明かりも星明かりも雪も寒さも届かないこの場所は、鮮明な痛みと向き合うことだけを強いる。
「僕も同じ経験がありますから」
半分閉じていた美澄の目が、ひたと久賀を見つめた。
「最後の三段リーグの時です。一人暮らししていたのですが、家事って思う以上に時間取られるでしょ」
毎日必要なことだけでなく、電球が切れたり、古紙をまとめたり、小さなイレギュラーは日々たくさん起こる。
「だから、少しでも手を抜けることは抜こうと思いました。ご飯は作る時間はもちろん、食べる時間も惜しかったので、食パンをそのままかじったり」
「いつも?」
「はい」
「それだけ?」
「はい」
美澄は口を開いたが、そこから言葉が出てこない。
「寝る時間が一番もったいなくて、特に設定していませんでした」
「『設定していない』って……」
「たまに意識がないときがあって、多分、そのとき寝ていたんだと思います」
久賀は苦笑して言ったが、美澄は笑わなかった。
「ついでに言ってしまうと、人と会う予定がなければ風呂も━━」
「それで倒れたんですか?」
「そうみたいです。三ヶ月ほど経った頃でした。気づいたら、病院で寝てました」
知人が久賀を発見し病院に運んだらしいが、そのあたりのことははっきり覚えていない。
ただ、今美澄が見ている景色とよく似たものを見つめながら、道を踏み外したのだと悟った。
「古関さん。立ち入ったことを言うようですが、やはりご実家に戻られたらいかがですか?」
美澄は返事をせず、じっと天井に目を向けている。
「ご実家で静養して、少しゆっくりしたペースで将棋と向き合ってみてもいいんじゃないでしょうか。将棋連盟所属にこだわらなければ、女流棋士になる道は他にもあります。一度生活を立て直して、それから棋戦で好成績を残すか、研修会でB2に合格すれば━━」
「先生、無理ってわかってること言わないでください」
芯の通った声でぴしゃりと言い切った。
「どんなに時間があったとしても、なんとなく続けていてなれるものではないでしょう? 今実家に戻って、生活を優先させてしまったら、私は絶対に女流棋士にはなれません」
美澄は拒絶するように、決して久賀を見ようとしない。