みずたまりの歩き方

眠れないわけじゃない、と言い訳しながら、美澄は布団に転がっていた。
エアコンの風がときどきカレンダーの端をめくる。
仰向けになると蛍光灯の明かりがまぶしくて目を閉じた。

馨には眠れていると返事をしたけれど、決して寝つきはよくなかった。
そもそも、対局の前日はあまり眠れない。
だからこんなことは慣れていると、自分にも言い聞かせていた。

けれど、浮き輪を水中に沈めようとするみたいに、なかなか睡眠に入っていけない。
ようやく眠っても、浅い眠りからまたぷかりと浮き上がってしまう。
眠れないわけじゃない。
けれど、よく眠れているわけでもない。

ドアがノックされて、美澄はビクリと起き上がった。

「はい」

「遅くにごめん」

馨の声だったので、美澄はパジャマの上にラベンダー色のカーディガンを羽織ってからドアを開けた。

「寝てた?」

コンタクトを眼鏡に変えていた美澄を見て馨は尋ねた。
馨も風呂上がりのようで、実家に置きっぱなしにしているTシャツとハーフパンツ姿だった。

「いえ、これから棋譜を並べてから寝ようと思ってて」

馨はじっと美澄を見つめた。

「あの、どうかしました?」

「古関さん。やっぱり夏紀くんに電話してみたら?」

「先生に?」

馨はもどかしそうに頭を掻いた。

「俺たち家族には言いにくいことも、夏紀くんになら話せるでしょ」

「そんな、言いにくいことなんて……」

「俺は古関さんを夏紀くんから預かったと思ってる。至らない自覚もある。だから遠慮しないで電話したらいいよ。冷蔵庫なんて見てないでさ」

「いえ! あれは本当に深い意味はないんです!」

美澄は自身の失態を悔いる。
冷蔵庫に変な意味を持たれてしまうと、今後使いづらい。

「それに私、先生の連絡先知らないので」

馨は、は? と言って動きを止めた。

「今までどうやって連絡してたの?」

「棋譜は倶楽部のパソコンに送ってます。あと、何かあれば倶楽部の電話に」

「夏紀くんからは?」

「連絡来たことありません」

「はあ!?」

表情を険しくした馨は、

「スマホ貸して」

と手を差し出した。
そう言われても他の人なら渡さないけれど、相手が馨であることとその怒気に押されて言われるままに渡した。
馨は自分の電話帳を見ながら、美澄のスマートフォンで電話をかける。

「━━━━もしもし、夏紀くん? 日藤だけど、今大丈夫?」

最低限の礼儀は払いつつ、馨はぶっきらぼうに話す。
知らない番号にもすぐ出た相手は、どうやら久賀らしい。

「これ、古関さんの電話。ちょっと古関さんと話して」

馨は美澄にスマートフォンを押しつけると、おやすみ、と部屋を出て行った。
残された美澄は恐る恐る受話口に耳を当てる。
< 76 / 144 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop