みずたまりの歩き方

「……もしもし」

『……もしもし、久賀です』

高すぎず低すぎず、久賀の声は耳のちょうどおさまりの良いところに届いた。

「お久しぶりです。古関です」

『えーと、あの、』

「はい」

『馨が『古関さんと話せ』って』

「……はい」

少し間があって、気を取り直したように落ち着いた声が返ってきた。

『馨は無意味なことはしません』

「はい」

『それで、僕の方からあなたに緊急性の高い用はありません』

「はい」

『ということは、つまり……あなたが僕に用がある、と馨は判断したんじゃないでしょうか』

「そう、みたいです」

美澄の返答から一拍おいて、真摯な声で久賀は問いかけた。

『何かありましたか?』

馨に聞かれたときと違って、何もありません、という虚勢が張れなかった。
沈黙は雄弁で、もう嘘は言えない。

『将棋のことだったら、こちらが聞かなくたって、あなたはベラベラ話すから、おそらく将棋以外のことですよね』

「『ベラベラ』って……」

『ですが、僕はたいした能力もないので、聞いたところで力にはなれないと思います。だから先に謝っておきます。すみません』

そんなことを馬鹿正直に言うなんて、電話の向こうにいるのはやはり久賀だと思った。
力になれないと言いながら聞く姿勢は変えず、その沈黙はひどくやさしい。
そう思ったら張り詰めていた気持ちが緩んだ。
いや、張り詰めていると自覚さえしていなかった心のやわらかい部分が緩んだ。

それは、隠すようなことでも、馨に話せないようなことでもない。
些細などうでもいいこと。

「『所詮おばさんでしょ』って言われました」

胸の痛みは気のせいではなく、事実じくりと痛んだ。

「言われたっていうか、言っているのをたまたま聞いちゃっただけなんですけど」

『誰に?』

「研修会の友達……友達だと私は思っていた子です。高校生なのに、最初からきさくに話してくれる子で、とても助けてもらいました」

相づちや返事はない。
それでも久賀が心を寄せてくれていることは、なぜだか伝わってくる。

「でも、私と対局が決まって、他の子に『所詮おばさんでしょ。負けたら恥』って」

唇の震えが声に混ざらないように、力を込めて話した。

「あと、『服が変』って」

『ああ』

「たいしたことじゃないのはわかってるんです。別に若く見られたいとか、そんな風に思ってるわけでもなくて。すみません。気持ちの切り替えがうまくできてないだけで、師匠には余計な心配をかけてしまいました」

ぱたりと降りた沈黙の向こうで、久賀が思考に耽っている気配がする。
それは美澄にとって慣れ親しんだ、懐かしく居心地の良い気配だった。
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