みずたまりの歩き方
「高校になったら級を上げて受験しなきゃいけないから、無理言って受けさせてもらったんだ。でも、やっぱり奇跡なんて起きないね」
美澄は小さくうなずいた。
奇跡は起きない。どんなに願っても起きない。
将棋を指しているものは誰でも、日々それを感じている。
勝つことも負けることもすべて自分の力。
「だからこそ勝つと嬉しいんだけどね」
「せめて二次試験までは行きたかったな」
二次試験は現役の奨励会員と三局対局して、一勝できれば合格となる。
「俺、奨励会は諦める」
圭吾はさっぱりと言った。
「いいの?」
「でも将棋はやめないよ。高校は強いところ受験して、団体戦で勝ちたい」
たくましくなった姿が嬉しくて、美澄は自分とあまり差がなくなった頭をぐりぐりと撫でた。
「研修会はどう?」
ボサボサになった頭を撫でつけながら圭吾が尋ねた。
尋ねられた美澄の方はパンフレットの上に倒れ込む。
「激流川上りって感じ」
「激流?」
「一歩進む前に三歩下がる。ぼうっとしてると五歩くらい下がる」
「よくわかんないけど、大変そうだね。頑張って」
圭吾のやさしい声に美澄はじんわりとあたたまる胸を押さえた。
「でも久賀先生は『古関さんは大丈夫』って言ってたよ」
「そうなの?」
美澄よりよっぽど丁寧に作業している圭吾は、広告を挟み終えたパンフレットを段ボール箱に収めていく。
「『古関さんはしぶといし、なんだかんだとメンタルの強さは常人じゃないから』って」
「それ、褒められてるのかな?」
「……多分」
徐々に関係者は増え、美澄はいただいたお酒やお花を受付横のテーブルに並べる。
その隣で圭吾は出入りする人を目で追っていた。
「すごい。プロ棋士がいっぱい。名人までいる」
その発言を受けて、美澄は圭吾に顔を寄せて囁いた。
「名人って、どの人?」
「一番奥のテーブルで揮毫してる人」
「え! あの人?」
名人は竜王と並ぶ将棋界最高峰タイトルのひとつ。
末席を汚すことすらできていない美澄には、雲の上の存在だが、にこやかに揮毫している青年にその威圧感は見えなかった。
「本当に名人? 圭吾くんの見間違いじゃない?」
「間違いないって」
戻ってきた久賀に、美澄は同じことを尋ねる。
「先生、あの揮毫してる方が名人なんですか?」
この会場にいる者としてその発言は常識外で、久賀は目を大きく見開いた。
「まさか、現役の名人を知らないんですか?」
「お名前と棋譜は存じ上げてますけど、お顔まで把握してなくて。……さっきお弁当運んでもらいました」
久賀が絶句した。
「名人戦の中継とか画像は?」
「チラッと見ましたけど、盤面ばっかり見てたので。服装違うし」
せっせと揮毫する名人を見つめていた圭吾は、大人びたため息をついた。
「古関さん、相変わらず何も知らないんだね」