みずたまりの歩き方
桁の違いに美澄が言葉を失っていると元気よく脚で引戸が開けられた。

「はーい、お待たせ。美澄ちゃん特製の茶碗蒸し!」

綾音がトレイから、ひとつだけ受け皿の色が違う器を久賀の前に置く。

「はい。夏紀のは椎茸抜き」

「どうも」

「そういえば、先生って椎茸苦手だったんですね」

茶碗蒸しを作っているとき綾音から、夏紀は椎茸苦手だから入れないで、と言われていたのだ。

「……噛んで、飲み込めないことはないです。栄養価が高いことも知ってますし」

味を想像したのか、強張った表情で久賀は言う。

「いえ、いいんです。ただ、全然知らなかったので」

「あなたと椎茸について話す機会がなかっただけです」

「そうですよね」

久賀のことを美澄は何も知らない。
美澄のことも久賀は何も知らない。
将棋というただ一点の繋がりは馨も同じなのに、今しがた見せられた関係に比べて、ひどく儚いもののように感じられた。
大好きな豚汁もれんこんのきんぴらも、うまく喉を落ちていかない。

「久賀くん、ご両親はまだ海外?」

「この春からロンドンに戻ったようで、まだしばらくは帰らないみたいですね」

「倶楽部の方はどう?」

「思ったより忙しいです。オンラインも始めたし、指導の依頼が多くて」

「父さん、うちはオンライン導入しないの?」

「そこまで手が回らないよ」

ただ箸を持ったまま、賑やかな会話にタイミングだけ合わせて相づちを打つ。

「夏紀って今夜は泊まって行くの?」

「いや、明日は仕事だから帰る」

「あら、そうなの? 残念。泊まって行けばいいのに」

「またの機会にお邪魔します」

「夏くんがうちに初めて泊まったのっていつだっけ? 小学生だったよね?」

「おばさん、昔のことは……」

「廊下とか暗いから、夜のトイレなんて小学生にはハードル高かったみたいで」

「おばさん、もういいです」

「あ! 思い出した! 夏紀、夜中に、」

「綾音!」

久賀は美澄を睨みつけるようにして、

「……未遂です」

と言った。

「『未遂』って何がですか?」

「未遂です」

「……はい」

迫力に押されて何度もうなずく。
忍び笑う馨や辰夫にも、久賀は鋭い視線で口止めした。

この場で美澄だけが知らない話題、美澄だけが共有していないものに、胸の中にひんやりしたものが兆す。
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