みずたまりの歩き方
「そんなの知らないよ……」
つぶやいた美澄を、真美がふり返る。
「どうかした?」
「いえ、何でもないです」
スマートフォンをしまおうとすると、ふたたび着信音がする。
久賀夏紀
『補足します。警報灯は、丸くて平たく片面しか点灯しない片面型、両面に赤色ランプがつく両面型、円筒形で中のLEDライトが360°見える全方向型があります。視認性の点で、片面型は死角が多く事故に繋がる危険性があるため、現在は両面型もしくは全方向型に置き換えられつつあります。』
16:29
「真美先生、すみません」
「どうしたの?」
「十分だけ、出てきてもいいですか?」
「いいけど、もう暗いから気をつけてね」
片道五分を走って、美澄は踏切に戻った。
辺りはすっかり暗く、踏切も闇に溶けている。
「これか」
美澄の身長より高い位置にある警報灯は、確かに円筒形をしていた。
伸び上がり、フラッシュを焚いて、警報灯を写真におさめる。
美澄
『全方向型でした。』
16:37
美澄
『先生、ところで先日の研修会の棋譜、見ていただけましたか? 師匠が二局目の銀の使い方について、先生の見解をお聞きしたいそうです。』
16:39
もう一度走って戻り、キッチンに立った。
出汁を取り、しめじとキャベツとベーコンを放り込んで、味噌を溶く。
何度も麻婆豆腐の味見をしていた真美は、難しい顔でスプーンを美澄に差し出した。
「味見し過ぎて味わからなくなった。もっと辛い方がいいかな?」
口に入れた肉味噌は、辛さより甘味が強い。
「でも、これ以上辛くしたら辰夫先生食べられなくなりますよ」
「そうねぇ。お子さまみたいな舌で困っちゃうわねぇ。じゃあ味はこのままで、辛さは各自ラー油で調整しよう」
もうひと匙すくった肉味噌にラー油を足して口に含むと、これはこれでおいしい。
そのとき着信音が鳴ったので、美澄はスプーンを口にくわえたままスマートフォンを開いた。
「美澄ちゃん、どうしたの?」
ラー油の香りを含んだ深いため息に、真美はふり返って尋ねた。
「師匠に頼まれて、先生にちょっと質問したんですけど」
真美の眼前にスマートフォンをかざすと、エプロンのポケットから出した老眼鏡をかけて、距離を取って眺める。
それからげんなりと顔を歪めた。
「よく打ったね、こんな長文。老眼には優しくないわ」
久賀から送られてきたメッセージは、スクロールが必要なほど長く、しかもほとんど符号だった。
料理しながらでは読むことさえままならない。
「頭痛い。このまま師匠に転送します」
「そんなの『お寿司おごってくださーい』って返事しておきなさい」
あはは、と笑って美澄はブリを皿に盛りつける。
時間がかかったであろうこのメッセージを、どこでどんな風に打ってくれたのだろうと想像しながら。