迷いの森の仮面夫婦
ぎゅっと抱き着かれても、もう過去のような衝動に駆られる事はなかった。 一つの長い恋がいつの間にか終わりを告げていた。
そっと桜子の体を離すと、彼女は瞳に涙をためて俺を見上げた。
寂しい時、辛い時、桜子の涙を拭ってあげるのが俺の役目だと思っていた。
けれど今、もしも世界の片隅で彼女が泣いていたとしたら、拭ってあげたい涙があった。 それはもう桜子じゃない。
「俺はもう、桜子の涙を拭ってはあげられない…」
「やっぱり海鳳変わっちゃった…」
しゃがみこんで、足元の傘を拾う。 赤い傘を俺の方へ傾けて、桜子は切なげな笑顔を見せる。
「愛しているのね、雪穂さんを…」
「気が付かなかったうちに俺の空っぽだった心を満たしていったのは、彼女だったんだ……。」
雪が降ったせいだろうか、電車が少し遅延しているようだ。
桜子と一緒に駅のホームに向かい、雪穂に「少し遅れる」と電話をした。
電車が遅れたせいですし詰め状態になった人々に押され、桜子が「海鳳」と名前を呼ぶ。