月光蝶
「……ところで利香、どんなお願いをしたの?」
僕のその問いに利香は少し戸惑ったようだった。
もしかして好きな男の子でもいるのかもしれないな、悪い事を聞いてしまったかも。
そう思い撤回しようとしたが、利香から逆に問いかけがやってきた。
「……お兄ちゃんは、お父さんの事、好き?」
先月の事を思い出して少し気が引けたが、「好きだよ」と答えておいた。
「じゃあ、お母さんの事は?」
「好き、だよ?」
「利香もね、お父さんもお母さんも好きだったの」
……『だった』という、過去形。
背筋がぞくりと寒くなった気がした。
「お父さんね、ほんとは凄く優しいんだよ」
「うん、知ってるよ」
事実、酒を飲み始める前の父は本当に理想的な優しい父だった。
「でもね、お父さんは優しいのに、お母さんの事を怒るの。それはね、お母さんが悪いからなの」
「……利香?」
「お母さんね、お父さんやお兄ちゃんがいないときに利香の事叩くの。それをお父さんに言ったらお母さんを怒ってくれたの。でも、お父さんに怒られたからって、お母さんまた利香の事叩くの」
……そんな話をしながら辿り着いた家の中は、気味が悪いほどに静かだった。
「利香、今のお母さんは嫌い。だから」
利香の声を遮るように電話が鳴った。
僕は震える手を伸ばし、受話器へ。
「……お母さんがいなかったら、お父さんはずうっと優しいままなのに」
受話器の向こうで混乱している父の話を聞き終える前に、僕はその場にへたりと座り込んでしまった。