月光蝶
「……あの蝶々はきっと溺れてるんだ。助けてあげないとね」
我ながら酷い言い訳だと思ったが、幼い利香は「可哀想だね」と納得した様子で僕の手を離した。
自由になった僕は桶にそっと近づき、話の通り、ゆっくりと蝶のいる水面を両の手で掬った。
月はゆらゆらと揺れながらも蝶を離さず、僕の胸の高さまでやってきた。
(―――月光蝶―――)
心臓が気持ち悪い程にどくどくと強く脈打つ。
(もし、本当に願いを叶えてくれるのなら……)
そっと目を閉じるとつい数時間前にも見た、もう何度も見たせいで脳裏に焼き付いてしまった光景が映し出された。
帰宅して早々に酒を飲み始める父。
そんな父を窘める母。
母を殴る父。
痛そうに顔を歪める母。
母に罵声を浴びせる父。
目に涙を浮かべる母。
そんな母を見て更に酒を煽る父。
僕たちを助けようとこっそり家の外へ逃がす母。
(願いが叶うなら―――どうか、父を……消して下さい)
そう強く望んだ瞬間。
それまで大人しかった蝶は急に羽をばさりと動かし、本物の月へと向かい羽ばたいていった。