夜が明けぬなら、いっそ。
景秀と小雪の力を借りて町へ出たい───、それは命令に近いわがままを渡された今日だった。
目指すは歌舞伎揚だ。
そこで狂言の観覧も行われるとのこと。
「茂くん。久しぶりに見渡す町はどう?」
「素晴らしい賑わいだ。駕籠(かご)から見る景色の数倍、心地よい」
「そりゃ何よりで。だってさ、良かったね小雪」
「…あぁ」
身なりだけではなく、名前や言動も違和感なく溶け込まなければならない。
だから家茂公は今日だけ名前を“茂(しげる)”とし、彼はあまり外を出られない病弱な身体の設定で。
「まだ公演時間まで余裕があるね。なにか腹ごしらえでもしておこうか」
「そうだな、余は……いや、僕は天ぷらが食べたい」
「天ぷら?確かこの先に有名なところを知ってるよ俺」
「ぜひ行こう、景秀。ほら小雪も」
少し出遅れた「…はい」が出た。
敬語はなるべくよしてくれ、なんて言われていたが無理に決まっている。
天下の徳川幕府の頂点を前にして馴れ馴れしく出来るあいつが狂っているんだ。
ただやはりこうして見ると、家茂公は普通の若き青年なんだと思わせられる。