逆プロポーズした恋の顛末
素直に濡れたズボンを脱いで、わたしが手渡した新しいものに穿き替える様子にホッとしながら、テーブルと床を拭き、空になった食器をシンクへ運ぶついでに、食パンを齧る。
洗うのは、帰って来てからだ。

幸生に歯みがきをしてやって、柔らかな髪についた寝癖を直してやれば、もう八時。
勤め先の診療所は九時から診察が始まるので、少なくとも三十分前には、着いていたい。


「準備完了。行くよっ! 幸生」

「しゅっぱーつ!」


靴を履いて、勢いよくアパートを出た途端、幸生が叫ぶ。


「ママー! いま、カエルがいたよ! 見た?」


「うん、見た見た。かわいいカエルだったね? でも、遅刻しちゃうから、じっくり見るのはあとにしよっか。あ! あっちに猫がいる」

「え? どこどこ?」

「んー、隠れちゃったかな? あの木のところにいたんだけど……」


前方の街路樹を指さして、強引に幸生の意識をカエルから引き離す。
もちろん、本物の猫はいない。

保育園までは、普通に歩いても十五分はかかる。
まだ十歩も進んでいないのに、立ち止まりたくなかった。


(やっぱり、自転車を買うべき……?)


ベビーカーを卒業してから、できるかぎり向き合う時間を確保したくて、歩いて通っている。
けれど、どんどん好奇心旺盛になっていく幸生に付き合っていては、永遠に保育園に辿り着けなくなりそうだ。


「あ、アリだ! 何か運んでる。ムシかなぁ?」

(ひぃいぃっ! やめてぇ……)

「幸生。アパートの裏の空地へ行けば、アリの巣を見つけられるかもよ? だから、いまは保育園に行くのが先」

「でもぉ」


あまり注視したくない獲物を運ぶアリから目を逸らし、渋る幸生を背後から抱えあげると、きゃっきゃと嬉しそうに笑い出す。


(もうっ! 遊んでるんじゃないんだってば……。それにしても、重いっ! ついこの前まで、腕の中に収まるサイズだった気がするのに)


こうやって抱き上げられるのも、いつまでだろうか……なんてことを考え、しんみりしてしまう。


「ママ! 歩くー!」

「え? あ、うん」


抱いていた腕から下ろすと、幸生がするりとわたしの手に、小さな手を滑り込ませた。


「ママとぼく、なかよし!」

「うん、そうだね」


手の中にある小さくて、温かくて、柔らかな感触に、幸生が生まれた日のことを思い出す。

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