逆プロポーズした恋の顛末
「アイちゃんが言っているのは、もしかして、『Adagio』のことかね?」
「そうです! ご存じでしたか」
「名前だけは。わたしは行ったことがないんだが、柾が行きつけにしておる」
「え。そうなんですか? わたし、八年ちかく通ってるんですけれど、いままで会ったことないですね……」
「アイちゃんは、店が休みの時に行くんじゃないかね? 柾は平日の仕事帰りに寄ることが多いから、すれ違っているんだろう」
「ということは、縁がないってことですね。わたしと柾さんは」
「確かに、縁というのは、自分ではどうこうできるものではないかもしれん」
九重会長は、控えめな『Adagio』の看板をポンと軽く叩いて、意味深な言葉を呟いた。
「しかし、その縁をどう生かすかは……大事にするのか、必要ないと切り捨てるのか。はたまた、悪縁としてしまうかは……あくまでも、当人次第だ」
その言葉が、胸に突き刺さる。
恋愛において、誰かと競い合い、争い合い、張り合うことはしない――。
それが、絶対に譲れないわたしのルールだった。
これまで、さして深い付き合いではなくとも、相手の気持ちが少しでも自分から離れていると感じたら、やり直すのではなく、別れを選んできた。
深く傷つけ合うことになる手前で引き返す――そうすれば、別れの痛みや寂しさを味わうのは、ほんのひと時で済むからだ。
尽とも、そうすべき。
別れを選ぶべきだった。
そもそも、彼がどこで誰と何をしようと、わたしには咎める権利も、責める権利も、詮索する権利もない。「あれは誰なのか」と問い質す立場にもない。
付き合ってさえいないのだから。
今夜にでも、尽にメールなりメッセージなりを送って、二度と会わないと言えばいい。
それが、正しく、賢い、大人の女が取るべき行動だ。
それなのに。
その日も、
その次の日も、
わたしは尽に連絡しなかった。
不都合な真実には目をつぶり、自分に課したルールも破り、最終通告を突き付けられるまで、何も知らないフリをし続けた。