壊れた少女は少年にキスをする
 7


 数日後。
 夜。十九時過ぎ。千尋は愛依子の家に行った。バッグには包丁。刃渡り一〇㎝。家から持ち出した。洋服は普段着。青いTシャツにパーカー、黒いパンツ。
 千尋の表情はいつもと変わらなかった。無垢な顔。これから殺人をする人間とは、思えないほどに。

 愛依子の家は近い。千尋は夜風に吹かれ意気揚々。愛依子に会える。愛依子のためになれることが嬉しかった。

「今日は二人とも家に居るから。玄関から入ってきて。鍵は開けておく」

 家に着いた。愛依子の言葉通り玄関のドアノブを回した。とても軽い。生死の重みを千尋は感じない。

 バッグから包丁を取り出した。玄関。知らない家の匂いがする。ぎゅっと握る。土足のまま廊下に上がる。音はほとんどしない。
 
 一歩。また一歩と、居間に近づいていく。

 と――、その時。

「きゃああ! や、やめて! やめてえぇぇ!」
「この野郎! ぶち殺してやる!」
「お、お父さん、私……、私は」
「色気づきやがって! 二人して俺をバカにして!」

 男性の声。少女の声。入り交じっている。男性の声はよく分からない。中年の声。怒気がこもっている。少女の声は愛依子。だけど、いつものように余裕のある感じではない。悲鳴だ。

 千尋は異変を感じて走り出した。

「――千尋……?」
「なんだお前は! ここは俺の家だぞ!」
「あ……、あぁ……」

 八畳のリビング。和室に座卓がひとつ置かれている。卓上にはコーヒーと雑誌。砂糖の大袋。部屋には三人。愛依子、愛依子の父。愛依子の母。
 父は愛依子へ馬乗り。殴られたのか、愛依子の顔にはアザがある。母はその隣で倒れている。意識はあるようだが、微かにしか動かない。

「この野郎! お前は誰だ!」
「あ……、う! うぅ……」
「千尋! 逃げて!」
「殺してやる!」

 父は千尋に掴みかかった。胸元をえぐられる。異様な顔。千尋は圧倒される。目の焦点が合っていない。千尋は愛依子から聞いていた。愛依子の父は、薬物乱用者である。愛依子に乱暴をする際には、大抵、薬物を使用している。
 千尋は意外に冷静だった。視線が周囲へ。冷静に分析をする。卓上の袋。砂糖の袋。封が開いている。座卓の下。よくよく見ると、スプーンとアルコールランプが落ちている。火は消えている。少し焦げ臭い。
 そうか。あれは覚醒剤。やったあとなのだ。千尋は落ち着いていた。

「ぼ、僕があんたを殺すんだ! 殺されない」
「お……、ぐっ、なんだ! この……」
「こ、この包丁で殺す! めいちゃんは僕が守るんだ!」
「さっきから! お前は誰なんだ! ああああ!」

 千尋は包丁を突きだし、威嚇する。愛依子は涙を流している。愛依子のために、僕はヒーローになる。
 孤独だった自分に生きがいをくれた。愛依子は、特別な存在。僕はそれを返したい。

「僕が守る!」

 と千尋は包丁を振り下ろす。が、畳ですべって転倒してしまった。激しく腰を打つ。千尋の殺気。威圧されたのか、父は意味不明な言動をする。言葉にならない、言葉。

「あうあれ……、あのあこあ、このあえれが」
「ぐ……、くそ」

 千尋は起き上がり再び剣を突き立てようとする。
 しかし、刹那に――。

「あなた! 一緒に死にましょう!」

――グサッ……。

 倒れていた母。長澤真理愛が夫を刺した。小さなナイフ。果物ナイフのよう。心臓を一つき。あまりの速さに千尋は状況を見極められなかった。

「あ、あぁぁ……」
「ああ、これで私たち幸せになれるね」

 母は恍惚の顔でつぶやいた。ナイフを引き抜くと、自分の心臓へ突き立てる。

「愛依子……、ごめんね。バイバイ」

 躊躇もない。母は胸にナイフを刺し、自害する。

 その日のことを愛依子は四年経った今も鮮明に思い出す。悪夢。白昼夢。真っ白な部屋が、突然に真っ赤に染まる。ナイフを持ったやつれた母。父は言葉にならない言葉を話して、愛依子の前に現れる。
 精神科医、三上琴音は、それを、
「PTSDね。心的外傷後ストレス障害という心のエラー」
 と、説明する。
 愛依子は、理屈を理解している。琴音は精神科医。心のプロである。だが、とてもそう思えない。信じられないのである。時々現れる父と母は、生きている。生きて、愛依子を呪うのである。

 その日、長澤愛依子の父、母は死亡した。

 愛依子は涙を流して笑った。
 嬉しかったのだ。
 同時に、壊れた。
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