四角い部屋の水槽 【恋に焦がれて鳴く蝉よりも・番外編】
 けれど、頷くことは出来なかった。
 俺は自分を落ちつかせるように緩く息を
吐くと、彼女の手に、自分のそれを重ねた。
 そうして、優しく、緩やかに、体温を遠
ざけてゆく。一瞬、傷ついたように彼女が
目を細めたが、俺は淡く笑んでいた。

 「ありがとう。でも俺、そういう男じゃ
ないからさ。五十嵐さんも、本当はそうい
うこと出来るタイプじゃないよね?」

 冷静に、諭すようにそう言った俺に、
彼女が瞬く間に顔を朱くする。
 艶やかな雰囲気が一気に霧散していき、
いつもの彼女が降りてきたようだった。
 彼女は両手で顔を隠すと、小さく首を
振った。

 「ごめん、ごめんなさい。今のは忘れ
て!こんなこと言うつもりじゃなかっ
たのに、私ったら飲み過ぎたのかしら」

 そう言って、パタパタと両手で顔を扇ぐ。
 俺はその様子にほっとして目を細めると、
開いていたメニューを閉じた。

 「いや、正直、ぐらっときたよ。五十嵐
さんくらい綺麗な人にそう言われたら、世
の中の男は、ほぼ堕ちるだろうね。でも俺
は五十嵐さんだから、中途半端なことはし
たくないって言うか。はっきりしないまま、
そうなりたくないって言うか。面倒な男で、
ごめん」

 そんなことを言わせてしまうほど、自分
が彼女を追い詰めているのだと改めて自覚
する。10代の時のように、「はい、次」
と新たな恋に踏み切れないのは、やはり
年を重ねたからか?

 相手の将来や奪ってしまう時間という
ものの重さを考えれば、どうしても半端
な気持ちで付き合うことが出来なかった。

 「酔ったついでにさ、もう一杯飲みなが
ら焼き鳥追加しない?俺、柔らかレバーの
塩味に惹かれてるんだけど」

 空っぽになったジョッキを手にして、
彼女の顔を覗く。まだ、ほんのりと頬を染
めたままの彼女に笑って見せれば、彼女は
気を取り直したように頷いた。

 「よし、じゃあさっそく」

 俺はテーブルの隅にある端末に手を伸ば
すと、『焼き鳥』の文字に軽く触れた。





-----彼女からメールが、来なくなった。



 そのことに気付いたのは、あの夜から
半月が過ぎた頃で……。

 その日も、俺は昼休みを過ごす車内で
携帯のメールフォルダをスクロールしな
がら、彼女からのメールが途絶えてしま
ったことに気を揉んでいた。

 「……やっぱり、傷つけちゃったか」

 俺は片手で携帯をいじりながら、コン
ビニで温めたばかりのブリトーにかじり
つき、ふぅ、と鼻から息を漏らした。

 不思議なもので、こうして彼女からの
連絡が途絶えてしまうと、無性に彼女の
ことが気になってしまう。

 嫌われてしまったのなら、仕方がない。
 そう割り切れるほど、彼女の存在は小さ
くはなかったのだ。連絡が途絶えて初めて、
彼女からのメールを楽しみにしていた自分
がいたことに、気付く。

 その気持ちを「恋」と呼べるのかどうか
までは、わからないけれど。

 このまま彼女がいなくなってしまったら
「寂しい」と思う自分がいる。

 
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