四角い部屋の水槽 【恋に焦がれて鳴く蝉よりも・番外編】
 けれどある人物の存在が、臆病な俺の
背中を押すこととなった。



-----榊 一久。



 俺が勤めるサカキグループの専務であり、
この会社の次期社長でもある、その人。

 秀でたビジネスセンスと恵まれた容貌と
を兼ね備えたその彼が、折原蛍里に想いを
寄せていることは、容易に悟ることが出来
た。だから、“本人”がそうと気付かぬうち
に、(かず)め取ってしまおう。

 そう思い至った俺は、愚かしくも、酒の
勢いで強引に彼女の唇を奪った夜から数日
後、人気のない展望台で思いの丈をぶつけ
たのだった。

 「絶対、大事にするから。いまは俺のこ
と、好きじゃなくても、構わないから。俺
と付き合ってください」



-----どうしても、あなたが欲しい。

-----どうか、俺を選んで欲しい。



 その想いを込めて、縋るように彼女を見つ
めた。彼女が「うん」と頷くのを祈りながら。

 けれどその祈りが天に届くことはなく、
残酷にも彼女の首は横に振られる。

 それでも諦められず、「俺が忘れさせる」
などと言って、みっともなくしがみ付いた
俺に、彼女は柔らかに「ありがとうね」と、
微笑んだのだった。





 「マジで情けねーな、俺」

 誰もいない、深夜の展望台で。

 俺は一年前のあの夜を思い出しながら、
深く、深く、ため息をついた。

 ここはサカキグループが入っている商業
ビルの29階だ。北側であまり広いスペース
が確保されていないこの展望台を訪れる人
は少なく、だから俺はこうして時々、ひとり
でこの場所を訪れている。

 激務に疲れた時、思いがけず発生した
ミスで仕事が行き詰まった時、俺はふらり
とこの場所に来て、無数に光る高層ビルの
窓の灯りを、ぼんやりと眺めていた。

 少し温くなった缶コーヒーに、口をつけ
る。暗く、澄んだ夜景の中には、失くした
恋の痛みを引きずったままの、哀れな男が
映り込んでいる。



-----やっと、吹っ切れたかな。



 と、そう思うたびにあの夢を見てしまう。
 彼女に出会った頃の、恋心を抱いた頃の
夢。

 そうして、夢の中で彼女に会えれば、
どうしたって遣る瀬無い心地になってし
まう。

 なぜなら、あれから一年近く経つという
のに、未だ彼女は一人でいるからだ。

 だから俺は、すっぱりと忘れて前に進む
ことが出来ずにいた。



-----前にも後ろにも、進めない。



 そんな、迷路のような日常は心のやり場
がなく、息苦しくもある。俺はまた、窓の
向こうを眺めながら細く息を吐くと、携帯
の液晶画面に目をやった。

 指紋認証でロックを解除する。

 メールのアイコンに新着のメッセージが
ある。何となく、そのメールの送り主を
予測しながら、俺はアイコンに触れた。



-----やはり、メールの主は五十嵐結子
だった。



 内容は、近いうちにまた飲みに行かない
か?という簡単なもので、文章の最後には
“今日もお仕事お疲れさま”と、ひと言添え
てある。
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