私のおさげをほどかないで!
「院長、俺、ちょっと今日は診察できそうにないです」

 いつもなら、身内という甘えもあって、もっと砕けた物言いになるところだが、今日は――いや、今だけは……そんな甘えで親父に接したくないと思った。

「もうじき開院時刻だぞ。何を馬鹿なことを」

 スタッフたちも親父と同じ意見らしく、冷ややかな視線が突き刺さる。

音芽(おとめ)が! あなたの娘が切迫した危機的状況にあるって言ったらどうしますか?」

 こんな卑怯な手、使いたくなかったが仕方ない。

 この親父が、娘を溺愛していることは周知の沙汰だ。
 実際には音芽は何ともないんだが、俺にとって凜子(りんこ)は音芽と同じぐらい……いや下手したら音芽(いもうと)より大切なんだ。少しくらいの嘘、許して欲しい。

「音芽に何かあったのか!?」

 案の定食い気味に俺に詰め寄ってくる親父に、「音芽には旦那(ハル)が付いてるから問題ないです」と告げてから、すぐに言葉を続ける。

「けど! 俺にとって音芽と同じくらい……いや下手したらそれ以上に大事な女性(ひと)のピンチかも知れないんです。だから――」

 行かせてくれ。
 そう言おうとしたら、皆まで言う前に「さっさと行け」と追い払うような仕草をされた。

 いいのか?と言う言葉も出ないほどに、俺は親父からのその言葉を待ち望んでいたんだと思う。

 正直な話、ダメだと言われても行く気満々だった。けど、やはり仕事に穴をあける以上、ちゃんと筋は通したかったから。

「恩に着ます!」

 言って(きびす)を返した俺に、「奏芽(かなめ)。どうなったかちゃんと連絡してきなさい。――あと、無茶はするな。お前の大事な子のためにも」という言葉が投げかけられた。

 俺は振り向かずに片手だけ挙げて、それに了承の意を示した。
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