腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
考え込んでいると、お母さんが深々と頭を下げた。
「日向子をよろしゅう」
「もちろんです……お義母さん」
お義母さん、という呼び方に笑顔のままピクリとお母さんの眉が跳ね上がった。
「まだ少し早いんと違いますの」
「早く慣れたほうがいいかと思いまして」
なんだろう、二人の間に見えない火花が散っているような気がして息を呑む。
お母さんが、つつっと左右之助さんの耳元に口を寄せると、小声で囁いた。
「首尾ようやりましたなあ」
潜めてはいてもお母さんの声はよく通った。
「大きなトラブルにならないうちに納められてよかったです」
お母さんがコロコロと鈴を鳴らすように嗤う。
「これは御苑屋と柏屋が手を取り合ったことを世間に示すための会見や」
「そういう側面があったことは否めません」
笑顔を交わして、お母さんが左右之助さんから距離を取る。
「日向子、何かあったらいつでも連絡しなさい」
「あ、うん」
「何ならすぐ戻ってきてもかまへんよ。そうなって困るのはあちらさんだけやろから」
ピシッと背筋を伸ばしたお母さんは、左右之助さんに怜悧な一瞥をくれて去って行った。
……違う。『そういう側面』じゃない。
この記者会見の目的は、本来そっちなんだ。お母さんの今の言葉は、私に警鐘を鳴らすためのものだ。
柏屋の先代、桜左衛門が亡くなり、今、御苑屋の左右十郎が亡くなった。時代物といえば御苑屋、世話物といえば柏屋。江戸時代に初代桜左衛門が三代目左右十郎の弟子だった縁でつながりが深くて、両家で芸の継承をしているタイトルがいっぱいある。
桜左衛門と左右十郎の両方を失って、今後の歌舞伎界は危機的な状況だ。江戸時代から四百年連綿と続く芸の継承が消えてしまうなんて、絶対にあってはならないことだ。
特に二十代の若さで御苑屋を背負うことになった松川左右之助には、新たな後ろ盾が必要なんじゃないかな。仲のいい一門同士だと、舞台の都度役者を貸し借りしたり、稽古や興行で協力したりしていると聞く。
もしこれが柏屋と御苑屋が手を組むための結婚だとしたら──
マスコミに騒がれ、スキャンダルになるリスクもあったけれど……柏屋の娘としての私と結婚が決まったこの状況は、今の左右之助さんにとって願ってもないことなのでは?
つまりこれって政略結婚……政治は関係ないから、家同士の契約結婚ってこと?
契約結婚。
その冷たい言葉の響きに、奈落に突き落とされたように目の前が暗くなる。
「あれ……?」
ふと、左右之助さんとお泊まりした日のことが脳裏に蘇ってきた。
朝、目が覚めた時、左右之助さんのスマホにポップアップでメッセージが上がっていたのを唐突に思い出す。確か、内容は──『土曜日に出ます』。
脚本が出るのだって、配役が出るのだって『土曜日に出ます』だけど……もし、それが土曜日に『松川左右之助と和泉日向子の熱愛発覚記事が出る』という意味だったとしたら?
「そうだ……あの人」
唐突に、一つの記憶がフラッシュバックする。
さっき駐車場の隅で左右之助さんとコソコソ話していた記者らしき男性。あの人を見たのは、左右之助さんとお泊まりをした朝、ホテルのロビーだ。ビジネスマン風の格好で、私たちの方を伺っていた。私が彼に気付くと、スッと視線を逸らしたことを思い出す。
まさか……リークしたのは左右之助さん本人?
もしそうなら、私を見染めたのはいつだろう。左右之助さんはお財布を届けにきた夜も、鴛桜の前でプロポーズした時も私個人が気に入ったようなことを言っていたけど、んなわけあるもんか。
柏屋の娘としての私に用があったという方が、悲しいけどまだしっくりくる。
「日向子をよろしゅう」
「もちろんです……お義母さん」
お義母さん、という呼び方に笑顔のままピクリとお母さんの眉が跳ね上がった。
「まだ少し早いんと違いますの」
「早く慣れたほうがいいかと思いまして」
なんだろう、二人の間に見えない火花が散っているような気がして息を呑む。
お母さんが、つつっと左右之助さんの耳元に口を寄せると、小声で囁いた。
「首尾ようやりましたなあ」
潜めてはいてもお母さんの声はよく通った。
「大きなトラブルにならないうちに納められてよかったです」
お母さんがコロコロと鈴を鳴らすように嗤う。
「これは御苑屋と柏屋が手を取り合ったことを世間に示すための会見や」
「そういう側面があったことは否めません」
笑顔を交わして、お母さんが左右之助さんから距離を取る。
「日向子、何かあったらいつでも連絡しなさい」
「あ、うん」
「何ならすぐ戻ってきてもかまへんよ。そうなって困るのはあちらさんだけやろから」
ピシッと背筋を伸ばしたお母さんは、左右之助さんに怜悧な一瞥をくれて去って行った。
……違う。『そういう側面』じゃない。
この記者会見の目的は、本来そっちなんだ。お母さんの今の言葉は、私に警鐘を鳴らすためのものだ。
柏屋の先代、桜左衛門が亡くなり、今、御苑屋の左右十郎が亡くなった。時代物といえば御苑屋、世話物といえば柏屋。江戸時代に初代桜左衛門が三代目左右十郎の弟子だった縁でつながりが深くて、両家で芸の継承をしているタイトルがいっぱいある。
桜左衛門と左右十郎の両方を失って、今後の歌舞伎界は危機的な状況だ。江戸時代から四百年連綿と続く芸の継承が消えてしまうなんて、絶対にあってはならないことだ。
特に二十代の若さで御苑屋を背負うことになった松川左右之助には、新たな後ろ盾が必要なんじゃないかな。仲のいい一門同士だと、舞台の都度役者を貸し借りしたり、稽古や興行で協力したりしていると聞く。
もしこれが柏屋と御苑屋が手を組むための結婚だとしたら──
マスコミに騒がれ、スキャンダルになるリスクもあったけれど……柏屋の娘としての私と結婚が決まったこの状況は、今の左右之助さんにとって願ってもないことなのでは?
つまりこれって政略結婚……政治は関係ないから、家同士の契約結婚ってこと?
契約結婚。
その冷たい言葉の響きに、奈落に突き落とされたように目の前が暗くなる。
「あれ……?」
ふと、左右之助さんとお泊まりした日のことが脳裏に蘇ってきた。
朝、目が覚めた時、左右之助さんのスマホにポップアップでメッセージが上がっていたのを唐突に思い出す。確か、内容は──『土曜日に出ます』。
脚本が出るのだって、配役が出るのだって『土曜日に出ます』だけど……もし、それが土曜日に『松川左右之助と和泉日向子の熱愛発覚記事が出る』という意味だったとしたら?
「そうだ……あの人」
唐突に、一つの記憶がフラッシュバックする。
さっき駐車場の隅で左右之助さんとコソコソ話していた記者らしき男性。あの人を見たのは、左右之助さんとお泊まりをした朝、ホテルのロビーだ。ビジネスマン風の格好で、私たちの方を伺っていた。私が彼に気付くと、スッと視線を逸らしたことを思い出す。
まさか……リークしたのは左右之助さん本人?
もしそうなら、私を見染めたのはいつだろう。左右之助さんはお財布を届けにきた夜も、鴛桜の前でプロポーズした時も私個人が気に入ったようなことを言っていたけど、んなわけあるもんか。
柏屋の娘としての私に用があったという方が、悲しいけどまだしっくりくる。