腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
「ハハハ、安月給のくせに。一人暮らしなんかわざわざしなくても、店継いだらいいのに」
「え〜、私には無理ですよ〜」
お客さんや会社の同僚からも、何度となく聞かれていることだ。お母さんも無理無理とでも言いたげに顔の前で手を振った。
「日向子に店任せるだなんて、早々に潰しはるわ」
「ひっど!」
「梨園でもあるまいし、世襲にこだわるご時世でもないやろ。板さんの誰かに継いでもらうんでも、全然構いませんのや」
「俺はそうなったら寂しいな〜」
「ふふっ、お気持ちは嬉しいですけどね」

一見お断りで、お客さんの紹介がなければ入店できない美芳は、政治家や経済界の大物、歌舞伎役者のような伝統芸能の担い手や芸能人まで客筋は多岐に渡る。
人目や世間体をいつも気にしなければならない女将業は、私には窮屈だ。店を継ぎたくないというより、お母さんみたいにはできないって気持ちの方が大きいかも。

「それより勧進帳、すっごくよかったですよ〜!」
勢い込んで身を乗り出す私に、森山さんが顔をくしゃくしゃにして笑った。
「そりゃ、良かった」
「左右之助の弁慶だなんてどうなることかと思ったけど、すっごくすっごくカッコ良かった〜」
「あれ、左右之助?左右十郎じゃなくて?」
「代役だったんです。左右十郎、体調崩してるんだって」
「そうだったのか。まあ、もう結構な歳だもんなあ」
そういえば、あの後、左右十郎って大丈夫だったのかな。ちゃんと回復して、また復帰してくれるといいんだけど。
そんなことが頭の片隅をよぎりつつ、興奮のままに話し出す。

「冨樫が弁慶の心意気に打たれて一行を通してあげるシーンで、それまで雲がかかってた空がパーっと晴れたんですよ」
「へえ〜!そいつはすごいねえ」
あれは奇跡みたいな光景だった。関所を突破した弁慶を祝福するように、満月の光が舞台に降り注いで左右之助を照らした。客席全員が息を飲んだのを昨日のことように思い出す。

「裏切り者」
「聞こえが悪いなあ」
うっとりと虚空を見つめる私に、お母さんが悪戯っぽく目を細めた。
「家は関係なく、素晴らしいものは素晴らしいの」
「はいはい」
美芳のお客さんには柏屋の役者さんが多いのだ。私が御苑屋の左右之助にハマってからというもの、お母さんは時々こうして私をイジッてくる。
「かっこいいけど、左右十郎のコピーみたいとか言ってなかったか?」
「そう思ってましたけど、開眼したんじゃないですかね。ああ、いいもん見れた。左右之助と勧進帳がますます好きになっちゃった」
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