甘い夜の見返りは〜あなたの愛に溺れゆく
旅館の名前は「田所邸」
静かな佇まいの旅館は、川のせせらぎと鳥のさえずりだけが耳に届き、いつも、話声や車の騒音の中で過ごしている生活とは、別世界だった。
「ここの庭、凄く綺麗に剪定されているし、有名な庭園のように魅力あるなぁ」
「縁側に座って、流れる時間は癒やされますね」
玄関を開けて、声を掛けると、40代くらいの女将さんが出て来た。
「よくお越し頂きました。せっかくお越し頂いたのに、お部屋はございますが、お料理の準備が出来ず、申し分けございません」
「いえ、お客ではないんです。突然失礼致します。私はこういう者でして」
湊さんは名刺を出して、挨拶をした。
「実は、私共のプロジェクトを進めるにあたって、お話させていただきたいのですが、お時間いただけますか?」
「今日は予約が入っておりませんので、どうぞ、お上がりください」
通された部屋は、その部屋だけの庭があり、さっき見た庭園とはまた違った、魅入る美しさだった。
近くの川の流れる音が耳に入り、開放される気分を味わえる。
「いいですね、特にお庭は芸術作品のようで、手入れが行き届いている」
女将さんは外を見て、優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。主人が庭師なんですよ。最近、地元に戻って来ましてね。元々同級生だったんですが、うちの庭の手入れをしてくれるうちに、結婚することになりまして…」
女将さんは照れくさそうに、顔を赤らめていた。
「ところで、西条HDの方がまた、どうしてこのような旅館に?」
「実はですね…」
湊さんは概要を話したが、女将さんは申し訳なさそうに答えを出した。
「そうですか。実はこの旅館は、今月で閉めることにしましてね」
「えっ、こんな素敵な旅館なのに」
「父の代からの料理人が、病気でお子さんの所に行くことになりまして。募集しても全く応募が無く、今は料理も出せなくなり、閉めることを決断しました」
「そうでしたか…」
湊さんは少し黙って考えていた。
「あの、ご主人は、何時頃お帰りですか?」
「今、庭師の仕事で出張してまして、来週に帰ってきます」
「来週、当社から営業担当の者が伺いします。もう一度お話させて下さい」
「えぇ、聞く事はいいですが、何のお力にもなりませんが…」
「お願いします」
湊さんは、頭を下げてお願いした。
「そんなに仰るなら…分かりました」
「では、私達は失礼します」
私も湊さんに続いて、一礼して旅館を後にした。
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