若き海運王は初恋の花を甘く切なく手折りたい
 そういえば、支配人室に至るまでは歩行を助けるための手すりや、杖を置くスペースが親切に配置されていた。これは歩くのが不自由になった彼のためのものだったのだろう。
 六十歳まで鳥海海運で働いた彼は、リタイア後も船乗りをつづけたがっていたが足腰を悪くしたため、見かねた妻に諭され陸に戻る決意をしたのだという。ハワイのホテルの支配人になったのはカナトの父の紹介で、たまたま信頼できる日本人の名義が必要だったからだと教えてくれた。彼がこの地を(つい)のすみかに選らんだのは、ハワイ好きな妻の後押しも大きかったようだ。その愛する妻も一昨年先立ってしまったため、いまはひとり悠々自適に釣りやサーフィンを楽しんでいると本人は言っている。

「そうだったのですか……」
「お嬢ちゃん、游の娘だな。この深い夜の海みたいな青みがかった瞳はアイツの目だ。名前はたしか」
「マツリカです」
「ああ、あのマリカーか。懐かしいなぁ、こんなに別嬪さんになっちまったのか」
「あの、ごめんなさい、覚えてなくて」
「いいさ。幽霊船の仲間のことなんか忘れていた方がいい」
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