若き海運王は初恋の花を甘く切なく手折りたい
   * * *

 大晦日の年越しコンサートが終わった午後十一時。乗客の多くはすでに自分達の部屋に戻り、おのおのの年越しを過ごそうとしている。カナトとマツリカは興奮冷めやらぬ様子で螺旋階段をのぼり、鳥海グループが貸切にしている最上階のフリーラウンジまで早足ですすんでいく。
 そこにはいつか弾いてあげると約束していた一台のアップライトピアノ。クルーズのあいだ、誰も訪れなかったラウンジで奏者を待っていたピアノは、調律済みなのかやさしい音で迎えてくれた。

「マツリカだけに聴かせてあげる」

 そしてアッシュグレイのスーツを着こなしたカナトが繊細なタッチでピアノを弾きはじめる。彼が奏ではじめたのはドビュッシーの「月の光」。
 しんと静まり返った空間に清冽な空気が漂う。
 これくらいしか諳じて弾けるものがないと謙遜していた彼だが、ピアノを弾いたことのないマツリカからすればすごいことだと瞳をキラキラさせて隣で聴いていた。

「オーケストラの演奏もすごかったけど、カナトのピアノもとっても素敵だよ!」
「ありがとう」
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