若き海運王は初恋の花を甘く切なく手折りたい
《2》
スタッフルームへ戻ったマツリカはそのままずるずるとソファに座り込む。
ミユキの言葉を反芻しながら逸る心拍を抑え込もうと深呼吸するが、動悸はいっこうにおさまらない。
――カナト。海運王の、息子……
なぜその言葉に身体は反応したのだろう、逢ったことなどないはずなのに。
鳥海海運の組織について調べたときにたまたま耳にしたから? でも、それだけではないような気がする。
社内で「歩く自動翻訳機」と呼ばれるマルチリンガルなマツリカだが、言語を獲得した代償なのか、彼女は記憶力がなかった。そのため自分が経験した多くの出来事を忘れている。日常生活で困ることはそれほどないのだが、思い出話に花を咲かせることのできない忘れっぽいところが玉に瑕だと周囲では評されている。
特に物心がついた頃のシンガポールでの暮らしなど、ほとんど覚えていない。事故で父親を失ったショックで、それ以前の記憶が霧散してしまったからだ。