三次元はお断り!~推しが隣に住んでいまして~
閑話 彼としては、
慎重に、慎重に慎重を重ねてドアノブを回し、そっと玄関のドアを開ける。
微かな重みを感じるだけで、知らず口元に笑みが浮かんだ。
僅かな隙間に身体を滑り込ませて外に出てみれば、そこには期待通りの物がぶら下がっている。
ずっしりと重いショッパー。
中身は、朝と昼の分の食事だ。
「―――……」
小高累はふにゃり、と寝起きの目元を緩めて笑った。
このところ、目が覚めて一番にするのはこの確認だ。彼女―――マンションの隣の部屋に住む涼水鈴が、累の食事を用意してくれるようになって一週間が経った。
切欠はよりにもよって、翌日まで入れない劇場に自分がスマホと鍵を忘れてくる、という間の抜けたものだったけれど。
今となっては、あの時の自分を褒めてやりたい気持ちでいっぱいだ。あとはそう、過去の恥を暴露してまで強引に事を押し進めた姉にも、ほんのちょっとなら感謝してやってもいい。
それでも、まさか本当に、毎日三食用意してくれるとは。
かなり負担になっているのではないか、と思う反面、どうしたって顔がニヤけるのは仕方がないだろう。
累はショッパーを手に取って、いそいそとドアの内側に引っ込んだ。
「嬉しいな、今日はマフィンとおにぎりのサンドイッチか」
好きな子が毎日、自分の健康を気遣って栄養バランスのとれた食事を手作りしてくれるのだ。これで嬉しくない男なんていない。
(そうだ。マフィンと言ったら、コーヒーだな)
えーと、多分ここ。とキッチンの戸棚をいくつも開けて確かめると、箱に入ったままいかにも使われていないコーヒーマシンが出て来た。
これは以前、ここに住んでいた姉が使っていたものだ。コーヒー豆は、貰ったものがいくつかある。……そうだ、どうせ使わないのだから、これもあとで彼女に持っていこう。彼女は、飲み物も沢山常備しているようだから。
少しでも喜んでくれるかな、と思うと、それだけで胸の辺りが温まる。累は少し微笑んで、使い慣れないコーヒーマシンに封を切ったばかりの豆をセットした。
彼女。
涼水鈴を、そのひとだと知らずに片恋のように焦がれていたのは、もう結構以前からの話だ。
最初から恋だったのか、と問われると、諾と答えるのは難しい。
何せその時の彼女は、たった一通の手紙とココアを差し入れてくれた人、だったから。
そもそも、累は芸能人になろうと思ってなった訳ではなかった。
有り体に言えば、大学時代のスカウトだ。最初は街のスナップショットだかを載せる雑誌で、それを見た事務所から連絡が来た。モデルの仕事をやらないか、という誘いだった。
割りのいいバイトという感覚でしかなかったそれが、変化を迎えたのはいつだったか。はっきり憶えている。
素人でしかない自分が、何故かキャスティングされた初めての舞台だ。
おそらくは、物珍しさか、舞台初進出という話題性のためか。唐突に放り込まれたその世界は、しかし累の心をがっしりと掴んだ。
……稽古の期間は散々だった。
そもそも、自分を売り物にして金銭を得る、という仕事に、大して興味もなかった累のことだ。
役者として何かを学んだこともない。レッスンなども受けていない。
台詞を憶えるだけでも大変だったのに、他の役者やアンサンブルと呼ばれる出演者たちとの、複雑な舞台上での動きまでも憶えなくてはいけなかった。立ち位置。いったいひとつの公演中に何回入れ替わるんだと思うその場所さえ、憶えきれないほどめまぐるしく変化するものだった。
正直、二度と御免だと思った。
―――初日の幕が上がるまでは。
コーヒーがぽと、ぽた、と落ちるのをじっと見つめてしまった。寝起きはどうもぼうっとしている。
意識を引き戻したのは、部屋着のポケットに入れっぱなしだったスマホのピリリと無機質な電子音だった。
着信設定などしていない、デフォルトの素っ気ないその音に画面を見てみると、見慣れた名前が表示されている。
成瀬。
今回の舞台でも共演した先輩俳優、成瀬佑からの電話だった。
「……もしもし」
『おー、起きてた? 珍しいねぇ』
明るい声。自分とは真逆の、口から先に生まれてきたと自分でも言うような、朗らかな人だ。
どうしてか気に入ってくれているようで、ちょくちょく連絡が来る。
「はあ。……昨日はお疲れさまでした」
『おー、累もな。無事に大千穐楽を迎えられて、良かったよ。んで、累、今日休みだって昨日言ってたよな』
「はあ」
何気ない会話のついでに言ったような気もするが、よく憶えているものだ。
こういうところが、マメな人というもののこまやかさなんだな、と感心する。
『俺もなんだ。もし空いてるならさ、午後からちょっと付き合ってくれない?』
「はあ……」
朝と昼は、絶対に家で食べたい。
彼女は気にするなと言ってくれるけれど、自分にとって最高に旨い食事とは彼女の作ってくれたものだ。……好きになった人の作る味が、今まで食べたこともないくらいに美味しく感じる、というのも不思議で、最高に幸運な話だけれど。
「午過ぎから五時半頃までなら」
夕方。
六時過ぎ、今日は、彼女を迎えに行く。
(……かなり戸惑ってたのは、解ってるけど)
彼女は本気で、そんなことはさせられないと焦っていた。昨夜の様子を思い出してふ、と小さく笑う。
だが、彼女はどうやら押しに弱い。悪いと思いつつ、部屋の外で彼女がどんなふうに暮らしているのかを見てみたい気持ちが勝った。
『なんだ、夜は用事でもあるの?』
「はい」
微かな重みを感じるだけで、知らず口元に笑みが浮かんだ。
僅かな隙間に身体を滑り込ませて外に出てみれば、そこには期待通りの物がぶら下がっている。
ずっしりと重いショッパー。
中身は、朝と昼の分の食事だ。
「―――……」
小高累はふにゃり、と寝起きの目元を緩めて笑った。
このところ、目が覚めて一番にするのはこの確認だ。彼女―――マンションの隣の部屋に住む涼水鈴が、累の食事を用意してくれるようになって一週間が経った。
切欠はよりにもよって、翌日まで入れない劇場に自分がスマホと鍵を忘れてくる、という間の抜けたものだったけれど。
今となっては、あの時の自分を褒めてやりたい気持ちでいっぱいだ。あとはそう、過去の恥を暴露してまで強引に事を押し進めた姉にも、ほんのちょっとなら感謝してやってもいい。
それでも、まさか本当に、毎日三食用意してくれるとは。
かなり負担になっているのではないか、と思う反面、どうしたって顔がニヤけるのは仕方がないだろう。
累はショッパーを手に取って、いそいそとドアの内側に引っ込んだ。
「嬉しいな、今日はマフィンとおにぎりのサンドイッチか」
好きな子が毎日、自分の健康を気遣って栄養バランスのとれた食事を手作りしてくれるのだ。これで嬉しくない男なんていない。
(そうだ。マフィンと言ったら、コーヒーだな)
えーと、多分ここ。とキッチンの戸棚をいくつも開けて確かめると、箱に入ったままいかにも使われていないコーヒーマシンが出て来た。
これは以前、ここに住んでいた姉が使っていたものだ。コーヒー豆は、貰ったものがいくつかある。……そうだ、どうせ使わないのだから、これもあとで彼女に持っていこう。彼女は、飲み物も沢山常備しているようだから。
少しでも喜んでくれるかな、と思うと、それだけで胸の辺りが温まる。累は少し微笑んで、使い慣れないコーヒーマシンに封を切ったばかりの豆をセットした。
彼女。
涼水鈴を、そのひとだと知らずに片恋のように焦がれていたのは、もう結構以前からの話だ。
最初から恋だったのか、と問われると、諾と答えるのは難しい。
何せその時の彼女は、たった一通の手紙とココアを差し入れてくれた人、だったから。
そもそも、累は芸能人になろうと思ってなった訳ではなかった。
有り体に言えば、大学時代のスカウトだ。最初は街のスナップショットだかを載せる雑誌で、それを見た事務所から連絡が来た。モデルの仕事をやらないか、という誘いだった。
割りのいいバイトという感覚でしかなかったそれが、変化を迎えたのはいつだったか。はっきり憶えている。
素人でしかない自分が、何故かキャスティングされた初めての舞台だ。
おそらくは、物珍しさか、舞台初進出という話題性のためか。唐突に放り込まれたその世界は、しかし累の心をがっしりと掴んだ。
……稽古の期間は散々だった。
そもそも、自分を売り物にして金銭を得る、という仕事に、大して興味もなかった累のことだ。
役者として何かを学んだこともない。レッスンなども受けていない。
台詞を憶えるだけでも大変だったのに、他の役者やアンサンブルと呼ばれる出演者たちとの、複雑な舞台上での動きまでも憶えなくてはいけなかった。立ち位置。いったいひとつの公演中に何回入れ替わるんだと思うその場所さえ、憶えきれないほどめまぐるしく変化するものだった。
正直、二度と御免だと思った。
―――初日の幕が上がるまでは。
コーヒーがぽと、ぽた、と落ちるのをじっと見つめてしまった。寝起きはどうもぼうっとしている。
意識を引き戻したのは、部屋着のポケットに入れっぱなしだったスマホのピリリと無機質な電子音だった。
着信設定などしていない、デフォルトの素っ気ないその音に画面を見てみると、見慣れた名前が表示されている。
成瀬。
今回の舞台でも共演した先輩俳優、成瀬佑からの電話だった。
「……もしもし」
『おー、起きてた? 珍しいねぇ』
明るい声。自分とは真逆の、口から先に生まれてきたと自分でも言うような、朗らかな人だ。
どうしてか気に入ってくれているようで、ちょくちょく連絡が来る。
「はあ。……昨日はお疲れさまでした」
『おー、累もな。無事に大千穐楽を迎えられて、良かったよ。んで、累、今日休みだって昨日言ってたよな』
「はあ」
何気ない会話のついでに言ったような気もするが、よく憶えているものだ。
こういうところが、マメな人というもののこまやかさなんだな、と感心する。
『俺もなんだ。もし空いてるならさ、午後からちょっと付き合ってくれない?』
「はあ……」
朝と昼は、絶対に家で食べたい。
彼女は気にするなと言ってくれるけれど、自分にとって最高に旨い食事とは彼女の作ってくれたものだ。……好きになった人の作る味が、今まで食べたこともないくらいに美味しく感じる、というのも不思議で、最高に幸運な話だけれど。
「午過ぎから五時半頃までなら」
夕方。
六時過ぎ、今日は、彼女を迎えに行く。
(……かなり戸惑ってたのは、解ってるけど)
彼女は本気で、そんなことはさせられないと焦っていた。昨夜の様子を思い出してふ、と小さく笑う。
だが、彼女はどうやら押しに弱い。悪いと思いつつ、部屋の外で彼女がどんなふうに暮らしているのかを見てみたい気持ちが勝った。
『なんだ、夜は用事でもあるの?』
「はい」