三次元はお断り!~推しが隣に住んでいまして~
驚いたように、ぽそっ、と低く、呟く。
「でしょう? それなら飲めますか」
「うん、美味しい。あ、いや、美味しい……です。丁度いい。好きな苦さだし、それに」
あー良かった、とわたしは胸を撫で下ろした。
ふっふっふ、それね、一押しのココアなんですよ。
わたしの推しも、甘いのが苦手でね。でもこれならいけるんじゃないかって、一度だけ出したファンレターと共にこれをプレゼントしたんですよ。
末端冷え性だって言ってたから、身体暖めて欲しくて。
「この味……、同じだ。あの時のココアだ」
まあ実際、基本わたしは二次元の住人なので、いくら推しとはいえ舞台俳優であるところの三次元の推しにはちょっとその、何というか、積極的に関わろうとは思ってないんですけど。お渡し会とか握手イベントとか全スルーなんですけど。
その時は、推しを励ましたくてね。ちょっと勇気を出してみたんですよ。
「そうだ、あの時のココアだ。でも住所とか書いてなかったから、お礼も出来なくて」
ん?
「ずっと、お礼が言いたかったんだ」
おい待て、弟さん、何か妙なことを言い始めたぞ?
わたしが一人、悦に入っている間、弟さんは何やらぶつぶつ呟いてた。そんなに気に入ったのかな程度にしか思ってなかったし、甘いのが苦手な弟さんがこれ飲めたなら、推しも大丈夫だったのかなーとホッともしてたんだけど。
「あなたですよね? その、スズさん、って」
んん?
「いえ? わたしの名前はリンですけど……」
何言い出してんだこの人。
と、思ったら、弟さんはやおら立ち上がった。
「でもその『リン』って、漢字だと鈴って書きますよね?」
「あ、ハイそうです。涼しい水の鈴って書きます」
「やっぱり!」
がば、と。
それまでどこか遠慮がちに身を縮めていたその人が、両手でわたしの手を包む。
ちょ待てよ!
「あの時は、手紙とココアをありがとう。俺、結構本気でへこんでて……、だから凄く励まされたんだ。お礼の手紙を出したかったんだけど、リターンアドレスもなかったし、名前も一文字だけだったし。ずっと、もし会えたらお礼を言いたいと思ってたんだ。あの手紙のおかげで、俺、まだ頑張ろうって思えたから」
いや待って待ってネタに走ってる場合じゃなかった、本気で待って!
こちとら二次元が実家と明言してる人間なんですよ、実在してる男性にそんなグイグイ来られたらいやまじでちょっと待って無理! 何か言ってるけど聞いてる余裕ない無理!!
「弟さん!」
先輩ヘルプ! ていうか名前もまだ聞いてなかったっていうか憶えてない!! 四年前一度紹介されただけの人の名前なんて憶えてないよ!!
「え、あの、解らない? ああそっか、俺今メイクもオフしてるし、髪もシャワー浴びたまんまだったから」
弟さんはそう言うと、くしゃくしゃのもしゃもしゃで目元までをすっぽり隠していた前髪をざっ、と両手で後ろへ流した。
やった、手が。やっと手が解放されたよ。そう息をついたのも、束の間。
「応援……してくれて、本当にありがとう。俺、小高累です。これで解るかな」
もしゃ毛の下から現れたのは、ほんの数時間前、ステージの上で細身の戦闘服に身を包み、凜々しく刀を振り回してた推し、その人の顔でした。
待って。
「おだかるい」
「そう。えっと、やっぱりメイクがないと解んないかな」
「おだかるい、ってあの、今日迦具土演ってたあの。ちなみに日替わり演出の母親殺し拗ねネタ最高に可愛かったんですけどいつもクールでちょっと暗めのキャラなのにあれ本気で照れてましたよねめっちゃ可愛くて鼻血出るかと思ったんですけどあの迦具土役の」
「ああ! もしかして、今日のソワレも見に来てくれてた? 嬉しいな、まだ応援してくれてたんだ……三年も前のことだし、もう忘れられてると思ってた。それでも、舞台とか見る人ならまたいつか目に入ることもあるかと思って、それが支えになってたんだけど」
ホント待って。
「小高累!?」
「? そうだよ、スズちゃん。……やっと言えた。あの時は、本当にありがとう」
なんてこったい。わたしは多分、今、白目でも剥いてるんじゃなかろうかと思う。
ふっと意識が遠のく。
「スズちゃん?」
とにかく最高の金曜日だった。
定時ダッシュで退勤をキめ、駆けつけた推しの舞台の夜公演は最高オブ最高過ぎて何度も泣いたし感動した。
このご時勢でずっと会えなかったオタ友とも、やっと食事できた。それまでライブ配信と現地とに分かれて見るしかなかった舞台を隣の席で、つらい場面の時には手を握りながら一緒に見られたのは本当に最高だった。最高ばっかりで語彙がないけど。
その上、そのまま終電までたっぷり舞台の萌え語りが出来たのも本当に嬉しくて、楽しくて、こんな金曜日があるから生きていけるんだなって。明日のソワレも一緒に見に行けるから、ホント楽しみだなってこの上なく幸せな金曜日で。
でも。
でも、まさかさ。
「スズちゃん!?」
その最後に、推しが目の前に現れるなんて予想できるはずがないじゃないか。
あまりの現実感のなさに、わたしの思考はそこでショートした。
累さんが何やら焦った声を出してたけれど、もう耳に入らない。
そのままたっぷり数分間、フリーズしたまま、動けずに現実逃避をするしかなかったのだ。―――
「でしょう? それなら飲めますか」
「うん、美味しい。あ、いや、美味しい……です。丁度いい。好きな苦さだし、それに」
あー良かった、とわたしは胸を撫で下ろした。
ふっふっふ、それね、一押しのココアなんですよ。
わたしの推しも、甘いのが苦手でね。でもこれならいけるんじゃないかって、一度だけ出したファンレターと共にこれをプレゼントしたんですよ。
末端冷え性だって言ってたから、身体暖めて欲しくて。
「この味……、同じだ。あの時のココアだ」
まあ実際、基本わたしは二次元の住人なので、いくら推しとはいえ舞台俳優であるところの三次元の推しにはちょっとその、何というか、積極的に関わろうとは思ってないんですけど。お渡し会とか握手イベントとか全スルーなんですけど。
その時は、推しを励ましたくてね。ちょっと勇気を出してみたんですよ。
「そうだ、あの時のココアだ。でも住所とか書いてなかったから、お礼も出来なくて」
ん?
「ずっと、お礼が言いたかったんだ」
おい待て、弟さん、何か妙なことを言い始めたぞ?
わたしが一人、悦に入っている間、弟さんは何やらぶつぶつ呟いてた。そんなに気に入ったのかな程度にしか思ってなかったし、甘いのが苦手な弟さんがこれ飲めたなら、推しも大丈夫だったのかなーとホッともしてたんだけど。
「あなたですよね? その、スズさん、って」
んん?
「いえ? わたしの名前はリンですけど……」
何言い出してんだこの人。
と、思ったら、弟さんはやおら立ち上がった。
「でもその『リン』って、漢字だと鈴って書きますよね?」
「あ、ハイそうです。涼しい水の鈴って書きます」
「やっぱり!」
がば、と。
それまでどこか遠慮がちに身を縮めていたその人が、両手でわたしの手を包む。
ちょ待てよ!
「あの時は、手紙とココアをありがとう。俺、結構本気でへこんでて……、だから凄く励まされたんだ。お礼の手紙を出したかったんだけど、リターンアドレスもなかったし、名前も一文字だけだったし。ずっと、もし会えたらお礼を言いたいと思ってたんだ。あの手紙のおかげで、俺、まだ頑張ろうって思えたから」
いや待って待ってネタに走ってる場合じゃなかった、本気で待って!
こちとら二次元が実家と明言してる人間なんですよ、実在してる男性にそんなグイグイ来られたらいやまじでちょっと待って無理! 何か言ってるけど聞いてる余裕ない無理!!
「弟さん!」
先輩ヘルプ! ていうか名前もまだ聞いてなかったっていうか憶えてない!! 四年前一度紹介されただけの人の名前なんて憶えてないよ!!
「え、あの、解らない? ああそっか、俺今メイクもオフしてるし、髪もシャワー浴びたまんまだったから」
弟さんはそう言うと、くしゃくしゃのもしゃもしゃで目元までをすっぽり隠していた前髪をざっ、と両手で後ろへ流した。
やった、手が。やっと手が解放されたよ。そう息をついたのも、束の間。
「応援……してくれて、本当にありがとう。俺、小高累です。これで解るかな」
もしゃ毛の下から現れたのは、ほんの数時間前、ステージの上で細身の戦闘服に身を包み、凜々しく刀を振り回してた推し、その人の顔でした。
待って。
「おだかるい」
「そう。えっと、やっぱりメイクがないと解んないかな」
「おだかるい、ってあの、今日迦具土演ってたあの。ちなみに日替わり演出の母親殺し拗ねネタ最高に可愛かったんですけどいつもクールでちょっと暗めのキャラなのにあれ本気で照れてましたよねめっちゃ可愛くて鼻血出るかと思ったんですけどあの迦具土役の」
「ああ! もしかして、今日のソワレも見に来てくれてた? 嬉しいな、まだ応援してくれてたんだ……三年も前のことだし、もう忘れられてると思ってた。それでも、舞台とか見る人ならまたいつか目に入ることもあるかと思って、それが支えになってたんだけど」
ホント待って。
「小高累!?」
「? そうだよ、スズちゃん。……やっと言えた。あの時は、本当にありがとう」
なんてこったい。わたしは多分、今、白目でも剥いてるんじゃなかろうかと思う。
ふっと意識が遠のく。
「スズちゃん?」
とにかく最高の金曜日だった。
定時ダッシュで退勤をキめ、駆けつけた推しの舞台の夜公演は最高オブ最高過ぎて何度も泣いたし感動した。
このご時勢でずっと会えなかったオタ友とも、やっと食事できた。それまでライブ配信と現地とに分かれて見るしかなかった舞台を隣の席で、つらい場面の時には手を握りながら一緒に見られたのは本当に最高だった。最高ばっかりで語彙がないけど。
その上、そのまま終電までたっぷり舞台の萌え語りが出来たのも本当に嬉しくて、楽しくて、こんな金曜日があるから生きていけるんだなって。明日のソワレも一緒に見に行けるから、ホント楽しみだなってこの上なく幸せな金曜日で。
でも。
でも、まさかさ。
「スズちゃん!?」
その最後に、推しが目の前に現れるなんて予想できるはずがないじゃないか。
あまりの現実感のなさに、わたしの思考はそこでショートした。
累さんが何やら焦った声を出してたけれど、もう耳に入らない。
そのままたっぷり数分間、フリーズしたまま、動けずに現実逃避をするしかなかったのだ。―――