恋文
恋文
♢♢♢
時は大正
地方から来た絢子は見慣れない帝都の銀座通りで右往左往していた。
路面電車が走る様子を見ながら方向音痴であることを心の中で嘆く。
絢子の前を洋服を着こなした男性や女性が通り過ぎていく。
田舎からやってきた絢子も家の中で一番いい着物を着てきたつもりではいたが帝都の銀座を歩く人々を見ると格差というのを実感させられる。
(何を気にしているの!私は勉強をしに来ているというのに!)
絢子は首を振って力強く正面を向いた。
明治維新から始まった西洋文化が浸透してきているとはいえ、絢子の育った町で洋服を普段から着ている人はほぼ見なかった。
和洋折衷という表現がここにはぴったりだと思った。
絢子がわざわざ荷物を持って帝都まで訪れた理由は一つだ。
それは、書生として名家である清華家にお世話になるからだった。
書生というのは女中ともまた違う。上流階級の家庭に住み込みで雑用等を任され、その合間に勉学に励む。
優秀な生徒は全国にたくさんいる。しかし、現在高等学校、大学を卒業するにはそれなりの資金が必要だった。
ある程度裕福な家庭でなければ高等学校を卒業することは不可能だ。
絢子の家庭のように中流階級でも女子だと特に高等学校を卒業させる家庭は少なかった。
女性の社会進出の動きはあるとはいえ、女子は上流家庭でなければ十分な教育は受けられない。
しかし、絢子は神童と謳われるほどに優秀だった。
そのため、絢子の両親は何とか高等学校までは卒業させることが出来たが、絢子の夢は医師になることだった。
医師は大学を卒業するか、もしくは医師の修業をしながら医術開業試験を受けて合格するしかない。
大正時代に女性が大学に通うのはよほどの金持ちか何か特別なルートを使うほかなかった。
つまり、絢子は医師になるには弟子入りをして医術開業試験に合格するしかない。
絢子の遠い親戚に紡績業で成功している家があった。
そこの伝手で清華家の書生になることが出来たのだ。
こんなに幸運なことはないと、心底思った。
清華家は、内務省に勤めているエリート一家だと聞くが、そこの長男が医者なのだという。
住所の書かれた紙を手に何とか清華家にたどり着かなければ、と眉間に皺を寄せていると…―
「こんにちは。もしかして絢子さんではありませんか?」
「え…っ」
背後から名前を呼ばれ咄嗟に振り返る。そこには、絢子よりも30センチは高い長身の男性が立っていた。
スーツ姿の男性の声色は優しく包容力を醸し出していた。艶やかな髪から覗くアーモンドアイが絢子に向いているというだけで胸が高鳴った。仕立ての良いスーツなど庶民には着ることが出来ないだろう。上級国民であることを間接的に伝えてくる。
柔らかい雰囲気とは裏腹にもう一度「絢子さんでしょうか?」と言い、歩み寄る彼の顔は凛々しい。
「は、はい。そうです。絢子と申します。清華京一郎様でしょうか」
「ええ、そうです。よかった、予定の時刻になっても姿が見えないものでしたから。でもすぐにわかりましたよ。誰よりも視線が上でしたから」
クスクスと笑う京一郎に顔を真っ赤にしながら今度は視線を下げた。
心音を抑えるように胸に手を当てる。
「さぁ、一緒に帰りましょうか。しばらくあなたの家は清華家となります」
「はい」
艶麗な容姿に既婚者ではないことを疑問に思った。事前に聞いていた情報は限られていたが、未婚であることは確かだ。
京一郎の後ろを歩きながらすぐに彼の足が止まり思わず背中に顔をぶつけそうになった。
わ、と小さな声を上げてしまった。
「少し遠いので人力車で移動しましょう。ここまで人力車で来たので」
「え?あ…わかりました」
目の前に止まっている人力車を見て緊張で頬を硬くさせる。
粗相がないようにしなければいけない。せっかく書生として勉学に励む場を提供してくださるのだから。
乗りなれない人力車に乗って数分、清華家に到着した。
「こちらが…?」
「そうですよ。先ほどから緊張が解けませんね。早く慣れくれなければ、勉学に集中できませんよ」
絢子は清華家の門の前で立ち尽くしていた。それは想像以上に立派な門構えであり、辺りを見渡しても圧倒的な空気を漂わせている。
行きましょう、と声を掛けられ絢子は口の中をからからに乾燥させながら「お邪魔いたします」と言って門をくぐった。
中に入っても同様に感嘆の声が漏れそうになった。顔に出さないようにと必死になっているのに、引き攣ってしまう。
家の内装は和風の外装とは違い、和洋折衷だった。
目に入る家具はどれも高価に見えた。視線を控え目に動かしながら奥の部屋に通される。
するとすぐに着物姿の女性が二人の前に現れた。外国の血が入っているのでは、と思ったほどにその女性はスタイルが良くいい意味で着物が似合っていないように思った。
彫刻のような整った顔立ちをしている女性は京一郎に会釈した後に絢子に向き直った。
「初めまして。女中頭の春と申します」
「初めまして。絢子と申します…」
上品で艶のある声が耳朶を打ち、慌てて同じように頭を下げて挨拶をした。
「今お飲み物をお持ちいたします」
春が下がり二人きりになる。
時は大正
地方から来た絢子は見慣れない帝都の銀座通りで右往左往していた。
路面電車が走る様子を見ながら方向音痴であることを心の中で嘆く。
絢子の前を洋服を着こなした男性や女性が通り過ぎていく。
田舎からやってきた絢子も家の中で一番いい着物を着てきたつもりではいたが帝都の銀座を歩く人々を見ると格差というのを実感させられる。
(何を気にしているの!私は勉強をしに来ているというのに!)
絢子は首を振って力強く正面を向いた。
明治維新から始まった西洋文化が浸透してきているとはいえ、絢子の育った町で洋服を普段から着ている人はほぼ見なかった。
和洋折衷という表現がここにはぴったりだと思った。
絢子がわざわざ荷物を持って帝都まで訪れた理由は一つだ。
それは、書生として名家である清華家にお世話になるからだった。
書生というのは女中ともまた違う。上流階級の家庭に住み込みで雑用等を任され、その合間に勉学に励む。
優秀な生徒は全国にたくさんいる。しかし、現在高等学校、大学を卒業するにはそれなりの資金が必要だった。
ある程度裕福な家庭でなければ高等学校を卒業することは不可能だ。
絢子の家庭のように中流階級でも女子だと特に高等学校を卒業させる家庭は少なかった。
女性の社会進出の動きはあるとはいえ、女子は上流家庭でなければ十分な教育は受けられない。
しかし、絢子は神童と謳われるほどに優秀だった。
そのため、絢子の両親は何とか高等学校までは卒業させることが出来たが、絢子の夢は医師になることだった。
医師は大学を卒業するか、もしくは医師の修業をしながら医術開業試験を受けて合格するしかない。
大正時代に女性が大学に通うのはよほどの金持ちか何か特別なルートを使うほかなかった。
つまり、絢子は医師になるには弟子入りをして医術開業試験に合格するしかない。
絢子の遠い親戚に紡績業で成功している家があった。
そこの伝手で清華家の書生になることが出来たのだ。
こんなに幸運なことはないと、心底思った。
清華家は、内務省に勤めているエリート一家だと聞くが、そこの長男が医者なのだという。
住所の書かれた紙を手に何とか清華家にたどり着かなければ、と眉間に皺を寄せていると…―
「こんにちは。もしかして絢子さんではありませんか?」
「え…っ」
背後から名前を呼ばれ咄嗟に振り返る。そこには、絢子よりも30センチは高い長身の男性が立っていた。
スーツ姿の男性の声色は優しく包容力を醸し出していた。艶やかな髪から覗くアーモンドアイが絢子に向いているというだけで胸が高鳴った。仕立ての良いスーツなど庶民には着ることが出来ないだろう。上級国民であることを間接的に伝えてくる。
柔らかい雰囲気とは裏腹にもう一度「絢子さんでしょうか?」と言い、歩み寄る彼の顔は凛々しい。
「は、はい。そうです。絢子と申します。清華京一郎様でしょうか」
「ええ、そうです。よかった、予定の時刻になっても姿が見えないものでしたから。でもすぐにわかりましたよ。誰よりも視線が上でしたから」
クスクスと笑う京一郎に顔を真っ赤にしながら今度は視線を下げた。
心音を抑えるように胸に手を当てる。
「さぁ、一緒に帰りましょうか。しばらくあなたの家は清華家となります」
「はい」
艶麗な容姿に既婚者ではないことを疑問に思った。事前に聞いていた情報は限られていたが、未婚であることは確かだ。
京一郎の後ろを歩きながらすぐに彼の足が止まり思わず背中に顔をぶつけそうになった。
わ、と小さな声を上げてしまった。
「少し遠いので人力車で移動しましょう。ここまで人力車で来たので」
「え?あ…わかりました」
目の前に止まっている人力車を見て緊張で頬を硬くさせる。
粗相がないようにしなければいけない。せっかく書生として勉学に励む場を提供してくださるのだから。
乗りなれない人力車に乗って数分、清華家に到着した。
「こちらが…?」
「そうですよ。先ほどから緊張が解けませんね。早く慣れくれなければ、勉学に集中できませんよ」
絢子は清華家の門の前で立ち尽くしていた。それは想像以上に立派な門構えであり、辺りを見渡しても圧倒的な空気を漂わせている。
行きましょう、と声を掛けられ絢子は口の中をからからに乾燥させながら「お邪魔いたします」と言って門をくぐった。
中に入っても同様に感嘆の声が漏れそうになった。顔に出さないようにと必死になっているのに、引き攣ってしまう。
家の内装は和風の外装とは違い、和洋折衷だった。
目に入る家具はどれも高価に見えた。視線を控え目に動かしながら奥の部屋に通される。
するとすぐに着物姿の女性が二人の前に現れた。外国の血が入っているのでは、と思ったほどにその女性はスタイルが良くいい意味で着物が似合っていないように思った。
彫刻のような整った顔立ちをしている女性は京一郎に会釈した後に絢子に向き直った。
「初めまして。女中頭の春と申します」
「初めまして。絢子と申します…」
上品で艶のある声が耳朶を打ち、慌てて同じように頭を下げて挨拶をした。
「今お飲み物をお持ちいたします」
春が下がり二人きりになる。