ピアニスト令嬢とホテル王の御曹司の溺愛協奏曲
「エルさん……今日も来てくれていたのかな」
「L」と記された封筒の裏面を優しく撫でながら、私はぽつりとつぶやく。
エル――それは私のパトロンと言うべき人の名だ。正しく言えば、本名を知らないので「L」という署名から私が勝手に「エルさん」と呼んでいるだけなのだけれど。
十二歳のころに突然オコナーというアイルランド系アメリカ人の国際弁護士が私のところにやって来て、「依頼主があなたのピアノ演奏に感動し、支援をしたいと申し出ている」と言い出したのが全ての始まりだった。
そのころちょうどニューヨークで子ども向けのピアノコンクールに出場していて、どうやら「依頼主」という人はそれを見て私に目を留めてくれたらしい。
あなたの将来に投資したいと、今後の学費の支援などを提示してくれた。
だが、それを受け取るのは躊躇われた。
というのも、うちは母がピアニストとしてそれなりに稼いでいる上に、母の実家も京都の旅館で、いわゆる名家の令嬢というものの端くれくらいには数えられる立場にあったからだ。
このままでも苦学生になることはないだろうと思われたため、私は彼らの申し出を辞退しようとした。
だが、それならば資金援助の代わりにどうかと示されたのが「ウォールデン・ホテル・アンド・リゾートの系列宿泊施設にいつでも泊まりたいだけ泊まれる権利」だった。
それは全世界に展開していて、主要都市にはだいたい系列ホテルがあると言って良いレベルの有名高級ホテルである。
演奏したり勉強したりするために頻繁に世界各地に飛ぶことになるであろう立場にある私としては、宿泊先を心配する必要がなくなるというのはかなり役立つものと思われた。
どうしてウォールデンほどのレベルのホテルにそんなにも幅が利かせられるのかとか、そもそも依頼人は何者なのかとか、詳しいことは依頼人からの守秘義務が課せられているらしく教えてもらえなかった。
しかしこちらには何も不利益がない話だったので、最終的にはオコナー弁護士と契約を締結することにしたのだった。
それ以来、年に一度の「ウォールデン・パス」と年に数回の依頼人直筆の手紙がオコナー弁護士経由で届けられている。
ウォールデン・パスとはクレジットカードほどの大きさのカードで、それを見せればウォールデン系列のホテルのどこにでも泊まれるという凄まじい代物だ。要するに、直接的な資金援助代わりに受け入れたホテル宿泊権を形にしたものである。
そして直筆の手紙は、季節の変わり目や演奏会をした後など折に触れて送られてくるのだが、自分の身の回りで起こった面白い話や私の演奏の良かったところを熱烈に書いてくれていて、読むと明るい気分になれる。
ピアニスト・一条六花にとって、それは間違いなく音楽活動を続ける上での心の支えだったし、明日への活力だった。
だから、いつもならば楽しみに開封するところなのだけれど――。
「もしエルさんが会場にいたのなら、こんな滅茶苦茶な演奏を聞かせてしまって、さぞやがっかりさせちゃっただろうな」
――今は、今だけは、見るのが怖い。
だって、今日の演奏に良いところなどあったはずがないから。せっかく長年応援してくれていたのに、期待を裏切ってしまった私はどれだけ罵倒されたって仕方がないから。
「……いや、私の知るエルさんの性格ならば、私をあからさまに傷つけるようなことは書いていないだろうけれどね」
エルさんは、きっとそんな人ではない。ここには優しく労りに満ちた文章が並んでいるのだろうと、頭では理解している。
これまでだって、私が失敗してしまった後には温かな励ましのメッセージが届いていた。
「今日はあなたの日ではなかっただけ。あなたの価値は一度の失敗で堕ちるようなものではない」と力強い筆致で書かれているのを見て、何度勇気付けられたか分からない。
しかし、今回ばかりはどうしても開封する気力がわかない。
だって、つい先日私は自覚してしまったのだ。顔も知らない相手だけれど、エルさんは私の特別で……私の初恋の人だということを。
エルさんに失望されてしまったら、私はきっと容易に立ち直れない。どこまでも深い絶望の中に突き落とされ、身も世もなく泣き崩れてしまうことだろう。
もちろんいつまでも現実から逃げ回っていることは出来ないので、近いうちに必ずこの手紙も読むつもりだ。
だから、どうか、今だけは――。
「今だけは、どうか現実から逃げることを許して……」
祈るようにつぶやいた私は、鞄の奥にそっと手紙をしまい込んだ。
「L」と記された封筒の裏面を優しく撫でながら、私はぽつりとつぶやく。
エル――それは私のパトロンと言うべき人の名だ。正しく言えば、本名を知らないので「L」という署名から私が勝手に「エルさん」と呼んでいるだけなのだけれど。
十二歳のころに突然オコナーというアイルランド系アメリカ人の国際弁護士が私のところにやって来て、「依頼主があなたのピアノ演奏に感動し、支援をしたいと申し出ている」と言い出したのが全ての始まりだった。
そのころちょうどニューヨークで子ども向けのピアノコンクールに出場していて、どうやら「依頼主」という人はそれを見て私に目を留めてくれたらしい。
あなたの将来に投資したいと、今後の学費の支援などを提示してくれた。
だが、それを受け取るのは躊躇われた。
というのも、うちは母がピアニストとしてそれなりに稼いでいる上に、母の実家も京都の旅館で、いわゆる名家の令嬢というものの端くれくらいには数えられる立場にあったからだ。
このままでも苦学生になることはないだろうと思われたため、私は彼らの申し出を辞退しようとした。
だが、それならば資金援助の代わりにどうかと示されたのが「ウォールデン・ホテル・アンド・リゾートの系列宿泊施設にいつでも泊まりたいだけ泊まれる権利」だった。
それは全世界に展開していて、主要都市にはだいたい系列ホテルがあると言って良いレベルの有名高級ホテルである。
演奏したり勉強したりするために頻繁に世界各地に飛ぶことになるであろう立場にある私としては、宿泊先を心配する必要がなくなるというのはかなり役立つものと思われた。
どうしてウォールデンほどのレベルのホテルにそんなにも幅が利かせられるのかとか、そもそも依頼人は何者なのかとか、詳しいことは依頼人からの守秘義務が課せられているらしく教えてもらえなかった。
しかしこちらには何も不利益がない話だったので、最終的にはオコナー弁護士と契約を締結することにしたのだった。
それ以来、年に一度の「ウォールデン・パス」と年に数回の依頼人直筆の手紙がオコナー弁護士経由で届けられている。
ウォールデン・パスとはクレジットカードほどの大きさのカードで、それを見せればウォールデン系列のホテルのどこにでも泊まれるという凄まじい代物だ。要するに、直接的な資金援助代わりに受け入れたホテル宿泊権を形にしたものである。
そして直筆の手紙は、季節の変わり目や演奏会をした後など折に触れて送られてくるのだが、自分の身の回りで起こった面白い話や私の演奏の良かったところを熱烈に書いてくれていて、読むと明るい気分になれる。
ピアニスト・一条六花にとって、それは間違いなく音楽活動を続ける上での心の支えだったし、明日への活力だった。
だから、いつもならば楽しみに開封するところなのだけれど――。
「もしエルさんが会場にいたのなら、こんな滅茶苦茶な演奏を聞かせてしまって、さぞやがっかりさせちゃっただろうな」
――今は、今だけは、見るのが怖い。
だって、今日の演奏に良いところなどあったはずがないから。せっかく長年応援してくれていたのに、期待を裏切ってしまった私はどれだけ罵倒されたって仕方がないから。
「……いや、私の知るエルさんの性格ならば、私をあからさまに傷つけるようなことは書いていないだろうけれどね」
エルさんは、きっとそんな人ではない。ここには優しく労りに満ちた文章が並んでいるのだろうと、頭では理解している。
これまでだって、私が失敗してしまった後には温かな励ましのメッセージが届いていた。
「今日はあなたの日ではなかっただけ。あなたの価値は一度の失敗で堕ちるようなものではない」と力強い筆致で書かれているのを見て、何度勇気付けられたか分からない。
しかし、今回ばかりはどうしても開封する気力がわかない。
だって、つい先日私は自覚してしまったのだ。顔も知らない相手だけれど、エルさんは私の特別で……私の初恋の人だということを。
エルさんに失望されてしまったら、私はきっと容易に立ち直れない。どこまでも深い絶望の中に突き落とされ、身も世もなく泣き崩れてしまうことだろう。
もちろんいつまでも現実から逃げ回っていることは出来ないので、近いうちに必ずこの手紙も読むつもりだ。
だから、どうか、今だけは――。
「今だけは、どうか現実から逃げることを許して……」
祈るようにつぶやいた私は、鞄の奥にそっと手紙をしまい込んだ。