ピアニスト令嬢とホテル王の御曹司の溺愛協奏曲
 私は控え室から出て、そのままニューヨークの夜の街へと繰り出した。
 とてもではないがまっすぐホテルに戻る気にはなれなかったからだ。
 ふらふらと歩いていた私の足は、一軒の高級そうなバーの中へと吸い込まれる。
 いつもならもう少し大衆的なところを選んだかもしれないけれど、店内も客層も静かで落ち着いた環境を求めた結果だった。

「はあ、もう今日は何も考えたくないわ。とにかく飲もう」

 何かを考えることも億劫で、バーテンダーに勧められるままに注文を入れていく。せっかくのそれを味わう心の余裕がないことを申し訳なく思いながら、次々とグラスを空けていく。
 果たしてそれからどれくらい飲んだのか、正直に言って正確な記憶はない。
 ただひたすら流れ作業のように次の注文を入れていた私を止めたのは、いつの間にか隣に座っていた見知らぬ人物だった。

「失礼。ですが、そろそろ止めておいたほうがよろしいのではありませんか?」

 異国の地で予想外にもいきなり日本語で話しかけられ、反射的に振り返る。私の目に飛び込んできたのは、黒髪碧眼の美しい男の姿だ。
 切れ長の瞳に、すっと通った鼻筋。ぱっと見はアジア系だが西洋人らしい彫りの深さもあり、両方の良いところが上手く噛み合わさっている。おそらくはハーフなのだろう。
 彼は凛々しい眉を下げ、心配そうに瞳を揺らしてこちらを見つめている。
 彼は一瞬躊躇したもののその長い指先で私の手に触れ、握りしめていたグラスを優しくテーブルの上へと下ろさせた。

「勝手なことをして申し訳ありません。しかし、ここはそれなりに治安が良いとはいえ日本ではありません。こんな夜に、酔って判断力を鈍らせた女性が歩くには危険すぎます。私がホテルまで付き添って差し上げますから、どうかそれ以上はお止めになってください」

 切実な響きを帯びた声で、男は私にそう告げる。それを見て、私はこてりと首をかしげた。
 ……どうしてこの人は初対面の人間にそんなふうに声をかけているの?
 だって、私が酔いつぶれたところで彼には何の関わりもないのだ。見て見ぬ振りをして立ち去っても当然のことだと思う。
 それなのに、彼の眼差しからは赤の他人に向けるものとは思えないほどに心から私を心配していることが伝わってくる。
 傍目には見知らぬ人すら不安を覚えるほどに私は悪酔いしているように見えるということだろうか。
 そんなことないのになあと軽く頬を膨らませながら、私は反論を試みる。

「別に、まだ大丈夫ですよ……?」
「……」
「分かりました! 分かりましたからっ!」

 彼の無言の圧に押されるように私が首肯すると、彼は花が綻ぶようにふわりと笑った。

「ありがとうございます。では、参りましょう」

 ……ねえ、どうしてそんな表情をしているの? 私が彼の言葉に従ったことがそんなに嬉しかったの?
 そう問う間もなく、彼はまるでどこぞの貴婦人をエスコートするかのように優美に手を差し出してくる。スマートに私の分まで会計を済ませ、颯爽と店を出ていった。
 彼に導かれるに任せて歩みを進めながら、私はその美しい顔を見上げて恨めしげに声を上げる。

「あーあ、せっかく嫌なことを忘れるために呑んでいたのに。あなたのおかげで中途半端になってしまいました」

 彼は善意で私に手を差し伸べてくれたのだと頭では理解していても、心まで納得できているわけではない。
 子どもじみた言葉と態度で詰る私に、男は困ったように呟いた。

「それは申し訳ございません。私に出来ることがあれば何でもいたします。お酒以外で、ではありますが」
「ふうん」

 ……ああ、私は自覚がなかっただけで、やっぱりひどく酔っていたらしい。
 翌朝冷静さを取り戻した後に、私はそう振り返ることになる。
 だが、そんなことになるとは知らないこの時の私は、男の発言ににっと口の端を吊り上げた。そして、蜂蜜を溶かしたように甘ったるい声で告げる。

「何でもする、とおっしゃいましたよね?」

 ちょうどホテルまで着いたところで、場を立ち去ろうとしていた男は私の言葉にはたと動きを止めた。
 私はそんな彼にぴとりと腕を絡め、甘えるように頬を寄せてみせる。
 彼は明らかに狼狽している様子だった。それはそうだろう。善意で助けた女にいきなり迫られて、困惑しないはずはない。
 だが、構わずに私は言い放った。にっこりと、蠱惑的な笑みを浮かべながら。

「今日の私は人肌恋しくてたまらないんです。どうか、私を一人にしないで」

 ――それから間もなく、私たち二人の姿はホテルの中へと消えた。
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