ピアニスト令嬢とホテル王の御曹司の溺愛協奏曲
「弾きたいというお顔をされているように見えたので。もしそうなら、無理に心を捻じ曲げる必要はありません。心の赴くままに動けば良いと思います」

 言いながら、レオは私の頭に何かをふわりとかけてくる。見ればそれは大判のショールのようで、私の頭をすっぽりと覆ってくれている。

「肌寒い思いをされてはいけないと一応準備していたものなのですが、別の形で役に立ちましたね。そのショールで顔を隠してしまえば、誰に見られてもまさか六花さんがこんなところで演奏しているとは考えないでしょう。……あの、こんなことを言うのもおこがましいですが、ストリートピアノの演奏で大切なのは上手さよりも楽しさなのではないでしょうか。弾きたい人が、弾きたいという心に従って弾くこと。そして、その演奏を心から楽しむこと。難しく考えずとも、それさえ出来れば良いと思います」
「……っ!」

 ……そうか。確かにそうかもしれない。
 自信をなくして諦念ばかりが広がっていた私の心の中に、レオの言葉は驚くほどすとんと落ちてきた。
 ピアノを弾く以上は、ピアニストとして恥ずかしくない演奏をしなくてはいけない。それが出来ないならば、私にピアノを演奏する権利はない。
 そんなプライドを抱くことは、ピアニストを職業とする者としては決して間違った態度というわけではないはずだ。
 だが、その枷に縛られて技術的な上手さに固執するようになるあまり、子どものようにただ純粋な気持ちでピアノを演奏する楽しみを見失ってしまうこともまた望ましくないだろう。
 私の精神がイップスを発症するまで追い詰められたことを考えれば、なおのことである。
 レオの言葉を聞いて、目が覚めるような思いがする。
 ……じゃあ、今の私はどうしたいんだろう?
 そう考えれば、自然と言葉が唇から零れ落ちていた。

「……やって、みたいです。無様な演奏になっても、今できる最善を尽くして弾いてみたいです」
「だったら、弾けば良いんですよ。余計なことは気にせず、好きなように」

 安心させるように笑顔を浮かべたレオに励まされ、私はゆっくりと椅子に座り、鍵盤に手をかけた。
 久方ぶりの緊張感に、本能的に震えが走る。
 ……大丈夫、大丈夫。
 何度となくそう念じても、あの大失敗したコンクールの光景が嫌でもフラッシュバックして身がすくんでしまう。
 人前でまたひどい演奏をしてしまったらと思うと、怖くて怖くて仕方がない。
 だがその瞬間、私の背にレオの温かな手が触れた。思考がはっと引き戻され、余計な考えを振り払おうとふるふると頭を振る。
 そうだ、今の私は私であって私ではないのだ。レオが顔を隠してくれたから、ここにいるのはピアニスト・一条六花ではなく名もなきピアノ好きの人間。
 上手くなくても良い。私はこの瞬間を楽しみさえすれば良い。
 そう思い直すことで、心は驚くほど落ち着いた。
 冷静さを取り戻した私の様子をレオは敏感に察知したようで、私の背から手を離すと適度な距離を取る。
 一度大きく息を吸った私は、呼気を吐き出すとともに最初の一音を奏でた。
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